念仏講

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念仏講や観音講などの講連中や個人が信仰の心をあらわしたものが石塔だと考えることができる。この様な石塔や石碑は数多く残されているが、この塔碑だけでは、当時の講の組織や勤行などの内容を知る手がかりとはならず、また、それらのことを知る資料が得にくいのも事実である。
 現在も庚申講や観音講が継承されているが、簡素化され形式的なものになっており、例えば千旦林・辻原では庚申の集りを初庚申の日のみとし、講としての行事ではなく町内の行事として取り扱われている。市内各地区でもこの様なケースが多くなり、当時の姿を再現することは困難な状況となっている。
 Ⅳ-64表からは、手賀野の「百万遍念仏会」川上の「女人念仏講」「上金村・子野村講中」など、集落や村単位に念仏講があったことが分かり、百万遍念仏や女人念仏とあれば、講を構成する人々や講の在り方の違いを判別することができるが、前にも述べた様にその実態は分からないことが多い。一般的には念仏講は講の日を決めて講元の家などに集まり、鉦をたたいて念仏の勤行をした後に講員が飲食を共にしたと言われ、女人念仏講は老女を中心とした集まりとされている。また、百万遍念仏は多人数で一〇八〇顆(つぶ)[または倍数]の大きな数珠を手繰(たぐ)り、一顆ごとに念仏を唱え総計をもって百万遍[実数は十万遍]の念仏を唱えたと言う。千旦林・辻原庚申堂内には竹製の、阿木・藤上や野内には木製の大念珠が保存されている。

Ⅳ-66 辻原庚申堂の竹製の大念珠

 川上庚申堂の七福神を納めた厨子の扉に、七福神の寄進者として「前念仏連中」「念仏連中」と、姓名が二段に分けて墨書されているが、これは、おそらく中津川川上(かおれ)に現在も慣行として残っている二つの葬式組のことと考えられる。前念仏連中とは書かれた姓名から真宗西生寺(さいしょうじ)[中津川市本町二]の門徒を言い、念仏連中とは曹洞宗宗泉(そうせん)寺[中津川市中村]の檀徒をさしていると推察できる。現在でも葬儀のときは町内の葬式組が葬具づくりや墓穴掘などを分担し、葬儀が滞りなく執行できることと、葬儀の晩に念仏を唱えることが葬式組の勤めである。この相互扶助を目的とした講である葬式組も念仏講と呼ばれ、川上の場合は宗派別に念仏講が組織されていたのだろう。また、葬儀の夜の念仏を女人念仏講が行うところもある。百万遍念仏を含めこれらを総てを念仏講と称しているが、Ⅳ-64表にある観音講連中が南無阿弥陀仏の名号石を造立した様に、民衆の間に流布し育てられた信仰は、複雑に入り交り複合的な形となり、どの講がどの部類に属するかを名称だけで分類することは不可能な場合がある。