個々の講による日待ちも月待ちと同じ様に、一般的に言われていること以外は分からないのが実情である。岩村領飯沼村の藤四郎が残した日記には、村方惣(総)日待ちの記録が三例残されている。この日待ちは講による日待ちとは形態が違うが、天明七年(一七八七)の総日待ちの様子を中心に取上げることにする。この年の五月二〇日の夜、飯沼村庄屋藤四郎方へ百姓代が訪れ「村人たちから御日待ちの願いがある。」と、次のことを提示し許可を求めている。
① 村の道路の主要な場所五か所に関を設ける。
② 神明社の境内がよごれているから、村の定使い四人に掃除をさせる。
③ 日待ちの日は、村中休みとし仕事をしない。
④ 神酒は中津川にて買い、金一分切りとして七、八升を見合せて買う。
⑤ 夜食と薪木は各自の持寄りとする。
⑥ 日待ちには塞神の明照院(法印)を頼む。
五月二三日に総日待ちを行った飯沼村では、翌二四日も村中休日とし、同村西山の愛宕社から宮の根の稲荷社へ、それから禅林寺境内の秋葉社を参拝している。
講員が講元に集り行う日待ちとは違い規模の大きい日待ちであるが、村人の参加の範囲が家毎に代表する者だけの参加なのか、村人全員参加なのかは分らない。また、村関を立てることは他村よりの入村や村から他所へ出かけることを禁止したものか、邪悪なものが村へ来ることを拒むことなのか判然としないが、禁忌の一つであったと思われる。
日待ちとは庚申の日、甲子の日、巳の日に、それぞれの講の仲間が集り一夜を不眠で籠り明かし、月待ちと同じ様に正月、五月、九月を重要な月としている。禁忌として出席前は必ず入浴することなどがあると一般的に言われているが、飯沼村の惣日待ちは講仲間の日待ちと違い、村中でやらなければならない理由があったと思われる。
藤四郎日記には天明七年(一七八七)の総日待ちのほかに、次の年に総日待ちを行っている。
・寛政元年(一七八九)八月二六日「日待ちの願いこれ有り 村方惣日待ちを仕り森清メ申候」
〃 八月二七日「村中遊び[仕事休み] 森江砂ヲ入れ申候」
・寛政三年(一七九一)七月二五日「宮ニて村中惣日待ちこれ有り候 壱人十弐文ずつ集め申候」
と、日記に書かれているが、両年の総日待ちが一定の期日に行われたのでないことが分かる。この点から飯沼村において総日待ちが、なぜ行われたかを考えると推察の域を出ないが、災難や厄介を振り払う意味があったのではないだろうか。天明七年(一七八七)の場合は、前年の二度にわたる暴風雨と秋の霖雨により、諸物価が上がり各地で暴動が起きている。寛政元年(一七八九)は、五月二七日より降りだした雨が、六月一五日から一八日にかけて大雨降りとなって被害が続出し、翌二年(一七九〇)も日照りが続いた後の八月二〇日は大雨、寛政三年(一七九一)には、四月の終りに恵那山(二一九〇m)に雪が降り里にはあられが降っている。この様な天災とか予期せぬ異変が、村人たちを総日待ちにかりたてたかも知れない。また、寛政三年(一七九一)には銭一二文ずつを集め、天明七年(一七八七)は、中津川から酒を購入し夜食を持ち寄っている。このことは日々の無事を祈ると共に、飲食を共にし夜を徹して語り合い、日ごろの苦労を忘れ楽しむ要素もあったに違いない。