藤四郎日記には、年中行事の一つとして植木祭のことが明和八年(一七七一)の日記に書かれ以後頻繁に出てくる。この植木祭は神前に神酒を供え参拝する程度のものであるが、この植木祭のもとである御鍬祭は近隣の村々も含めて挙行される盛大な祭りであった。この御鍬祭に対して岩村領では明和四年(一七六七)六月
幟(のぼり)・造物(つくりもの)など致し 隣郷ともたがい出合候て 酒食など振舞い費用これ有る旨相聞之候
と、御鍬祭を行うことを「無益の高掛り」と言い、信心と豊作を祈ること以外は慎む様に触を出している。この御鍬祭について飯沼村旧記(市史中巻別編・村の記録)には
苗木辺ヨリ中津川ヘ御越シ 夫ヨリ所々御廻リ 享和二年三月二日東野邑へ入玉フ 御荷物四人長持三棹 神木六十四荷也
と、記録されている。飯沼村旧記でも分かる様に苗木辺りで起った祭りが、中津川で各地に分かれ巡行し、そのうちの一つが岩村領東野村[恵那市東野]へ入り、それから
子安森ニテ酒施行 村中家毎御立寄リ夥シキ豊年祭也 夫ヨリ阿木邑御越シ 阿木邑ヨリ又当村ヘ帰リ玉フ
と、飯沼村から阿木村へ御鍬は巡行している。この年の飯沼村での御鍬祭の様子を藤四郎日記により紹介すると次の通りである。
二月廿九日
七ツ頃より壱刻遅れに御鍬様三度参り 夜ニ入り宮ニ会所立て居り候処 注進六返ニ壱刻遅れニ参り
三月朔日
お宮江参り村方通り 東野村より御鍬様御先荷参り七里同道 丸七里四拾返余東野村より参り
二九日から一日にかけ東野村から注進や使いの者(七里)が、四〇数回も飯沼村へ来ており、御鍬の巡行は事前に分かっていた。だから巡行の道筋にあたる村々では、人物や動物などの造り物と植木の神輿、それに幟をつくり、飯沼村の様に道や橋を掃除し修理をし、会所を建てて御鍬の巡行を待ったのである。
三月二日
男女共ニ御宮江出候 御先荷物追々三拾ばかりも参り 暮合迄ニ百人持ばかりニ参り 夜ニ入り御鍬大神宮様東の村境江御出御先長持四拾人掛りと申事
三月三日
東野村より段々御献上荷物 植木送り参り 八ツ頃に御鍬様阿木村江野田村江御越成られ候 諸道具迄ニ八百余人人足入り申候 やつこ廿人そろへ野田境江送り 夫(それ)より田中御泊り 広岡大の森休み 宮沢御泊りニ而御出也
三月四日
村中御宮江 植木残らず御宮ニ植置申候
この巡行は五日、六日と続くが、五日には飯沼では人足が足りず阿木村などから一一〇余人を借りている。また、この巡行にかかった費用は銭一七貫文余となり、飲んだ酒は一石五斗となっている。阿木村より飯沼村へ帰った御鍬様は、
「阿木村ヨリ又当村ヘ帰リ玉フ」と、飯沼村へ帰り止まったことを飯沼村旧記は書き、藤四郎日記もこの日以後の巡行の記録を残していない。これは、御鍬の巡行が飯沼村では終息したことを示し、飯沼村ではこの日、御鍬の祠を宮ノ根に建てている。
御鍬祭は六一年目ごとに挙行されると言われ、享和二年(一八〇二)の前の巡行は、寛保元年(一七四一)であった。苗木領上野村[坂下町上野]の記録は、同領坂下村[恵那郡坂下町]から繰り込もうとした御鍬の巡行を、隣接する尾張領田立村[長野県木曽郡]が断り、坂下村に止まった御鍬は翌年二年(一七四二)再び動き出したと書いている。
また、文久二年(一八六二)の巡行は、苗木領蛭川村の記録が残され「生きている村」(安江赳夫著・中野方町史刊行委員会)に詳しく再現されている。その中に
「……然れば当年六十一年目 御鍬御祈禱執行致し 四穀成熟の為め今度一万度御祓太麻御鍬相添之御送り申候間……」
と、伊勢御師からの予告状が所収されている。御鍬祭に関しての史料が、市内においては日記類にしか見られない中で、苗木領内に御師差出しの巡行予告状が残されていることや飯沼旧記の記事から、この地方の御鍬巡行の発端地は苗木領と推察できる。
御鍬の祭神について飯沼村旧記は、御鍬大明神は「豊年守護神也」と書いているが、この神は食物神、すなわち農業の守護神である豊受大神のことを言い、内宮の神明信仰とは異なり、産土神としての祭神に祀られていることは稀である。飯沼村では植木祭として祭りが行われてきたが、豊受大神の祠が建てられるのは後のことであり、外宮信仰がどの様な形で行われたかは、御鍬祭を含めて不明な点が多い。その一つに岩村松平家が明和四年(一七六七)に御鍬祭に関しての触状を出しているが、寛保の巡行より二六年後であり、文久の御鍬祭までは三五年前である。何故、この時期に禁令が出されたか見当がつかないが、伊勢外宮と関係なく御鍬祭が挙行されたのか、他地方で巡行が行われたものか、現在のところ推察するより方法がないが、御鍬祭がお陰参りの様な全国的な規模でなかったことは確かである。