植木祭は御鍬太神宮勧請後の文化元年(一八〇四)と文化七年(一八一〇)の藤四郎日記にも記述され、御鍬太神宮の勧請と植木祭との間には、祭祀の面から見るとあまり関係がなかったと考えられる。この御鍬太神宮は「祭」を契機として勧請され祠が建立されたが、飯沼村に勧請された他の神々は、信仰となる対象も多様で秋葉大権現や愛宕大権現は火伏せ、牛頭天王(ごずてんのう)は疫病除の神として信仰し、その他の神々は諸々の災難をふり払い利益を得るため、それぞれの神の本社より神符などを受け、また御師などの勧めを受け分社を建立したのであろう。
Ⅳ-68表は飯沼村旧記に記録されている小祠である。牛頭天王[津島社より勧請]の勧請は宝永年中[一七〇四 一七一〇]であるが、そのほかの小祠の祭神は一八世紀後半に勧請され、勧請された神の中には禅林寺境内の秋葉大権現や西山の愛宕大権現の様に、他の場所より移されたり、勧請後三〇数年を経て祠が建てられた場合もある。だから、当初建立された場所に鎮座するとか、勧請と同時に祠が建てられたとは限らないのである。愛宕大権現の祠の建立については、
三月廿二日
向平より愛宕山堂入りと願いこれ有り 五人組寄り相談仕り 廿四日に村中遊び候筈
三月廿四日
向平愛宕堂入り 妻神山伏頼み村中遊び遷宮仕り候 只今迄愛宕山と申候得共堂無しこの日神酒と一緒ニ獅子奉加仕り 廿二日夜村五人組遊び候こと向平より願いの由 相談仕り候處一統遊せ候様と申ニ付き今日遊せ申候
と、藤四郎日記に書かれ、愛宕大権現の遷宮と村中休み日にすることの申入れが向平組より出され、村役人がそれを相談の上許可していることが分る。また、堂入りの当日は神酒が振舞われ獅子舞が奉納されている。この愛宕大権現は御鍬太神宮の様に飯沼村としての勧請でなく、一つの集落が勧請したことが日記の記述から推定できる。「只今迄愛宕山と申候得共堂無し」と、飯沼村旧記の「延享年中京都ヨリ勧請 此の山ヲ今愛宕山ト云フ」の記事とは一致している。
寛政一二年(一八〇〇)三月に四国讃岐国より勧請された象頭山金毘羅大権現は、槙ノ上の清兵衛が寛政八年(一七九六)ころから金毘羅大権現勧請の願いをこめ石を拾い社檀を築き、これが成就したのを機に、清兵衛の願いを聞き入れた飯沼村は村中で代参を立て勧請したものである。また、清兵衛は木曽川より丸石を背負い来て妙見宮と日天子を建立し参道に並木を造っており、「清兵衛ハ寄特ナリ」と、飯沼村旧記はこの項を結んでいる、神々の勧請は清兵衛の妙見宮、日天子の様に個人の発願によるものや、前述した村の勧請、それに集落での建立があった。
Ⅳ-68表にまとめた飯沼村の小祠は
「慶応元乙丑年九月 寺社御改トシテ大野源兵衛殿
渡辺左次馬殿[各大目付]下目付二人属シ廻村……朱ニテ記シ有之御神ノ外ニ十二ヶ所ノ改有リ左ノ通リ」
と、岩村松平家大目付らによる寺社改めを受けたものである。山ノ神一一か所と氏神一か所は朱書されたものでなく「但シ 自分屋舗内に勧請 主コレ有ル神仏ハ御構ナシ」の、但し書の神仏と同等の扱いを受けている。
Ⅳ-68 飯沼の主なる祠 (飯沼村旧記より)