湯舟沢の小祠

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尾張領湯舟沢村霧ヶ原新田は宝暦一一年(一七六一)に新田の縄入れ(検地)を受けるが、その前年の宝暦一〇年(一七六〇)に里村である湯舟沢村の産土神諏訪社から分社したと言われ、現在でも「おすわさま」と呼ばれ崇敬されている。
 湯舟沢諏訪社には万治二年(一六五九)からの棟札の記録があり、諏訪大明神の他に白山大権現、恵奈大権現、富士浅間、八幡大菩薩、神明大神の五社が合祀されているが、神明大神は天明八年(一七八八)からの合祀である。分社されたと言う霧ヶ原の「おすわさま」は、合祀されている他の神は分社していない。宝暦一〇年(一七六〇)の「おすわさま」の棟札は上の通りである。
表    寶暦十年庚辰年
           願主 新田中請願成就
       湯舟大明神
  謹請奉勧請御嶽山大権現 合殿小社壹社
       多賀大明神
   寶暦十年 移宮吉祥院法印照常
     如月八日吉辰
     (卯)



  此神社古代

  奉祭拝時代

  年号不知先年

  御城并町家有

  之節ヨリ申傳来也

             大工 藤原文四郎

           発起人  善蔵 安右衛門
                善八 半右衛門
                平内 源□
                加平 忠助
                又市 惣十
                勘七 伝作
                   清兵
                   小八
                   七□□
           其外
            新田中

    右諸願成就
          除災與楽
      五穀成就

 この祠は「おすわさま」「おたがさま」と、呼ばれているが、棟札には諏訪大明神の神名はなく、温川(ぬるがわ)の深淵を湯舟と称し雨乞の神である湯舟大明神と長寿の神として知られる多賀大明神、それに、御嶽大権現が合祀され同権現が主神となっている。この棟札以後一〇回の再建が行われるが、いずれの棟札にも湯舟、御嶽、多賀の三神名が書かれている。昭和三八年(一九六三)の棟札からは霧ヶ原神社と改称されている。この祠のかたわらに「慶応四(一八六八)戊辰六月吉日 御嶽座王大権現 願主嶋崎善八」の石塔が立ち、これを「おんたけさま」と、呼んでいる。なぜこの祠が「おすわさま」と呼ばれているかは分かっていない。
 川表の向山には「こんぴらさま」と、呼ばれる小祠がある。文政四年(一八二一)に勧請した秋葉、金峯山、三峯(みつみね)の三権現のそれぞれの棟札がある。三峯大権現の棟札には、湯舟沢村の嶋崎、嶋田の両庄屋、それに細野の組頭仙治郎と平九郎、牧の組頭林右衛門らの名が見られ、また「講中安全 五穀成熟 子孫繁昌」の願文が書かれ、当時の湯舟沢村では、この三権現の信心講がつくられていたことが分かる。天保八年(一八三七)の棟札からは金峯山大権現の名は見られず、両脇に秋葉、三峯の両権現が祀られ、中心が金毘羅大権現となっている。なぜ、この様に祭神がかわったかは分からないが、呼称から考えると、金峯山を金毘羅と誤解した可能性が強い。
 この三権現は、農業神・水神として信仰された金毘羅大権現、猪や鹿などの獣害・火難・盗難を除ける三峯信仰、それに火伏せの秋葉信仰と農村の生活に密着した神々であった。三峯大権現は奥秩父三峯山に鎮座し、修験道の色彩の濃い山岳宗教であり、産土神諏訪大明神を始めとして合祀されている神々の中でも、白山、恵那の両権現と富士浅間社、霧ヶ原の御嶽大権現は霊山を信仰の対象とする山岳宗教である。これらの神々を祀る湯舟沢村は、他地域にない特徴を信仰の上で持っていたと言えよう。
 湯舟沢山は良材を産し伊勢神宮の遷宮材を度々伐り出しており、「味噌野(御園)」の地名は、遷宮材伐り出した関係した当時の地名とも考えられる。霧ヶ原の国有林内には、山仕事に関係のある人たちが願主となった弁財天がある。願主は
 
 細野村請負人勘助 同助四郎 王瀧村杣代人文右衛門 王瀧村日用代人清吉
 
 と、なっており、文久二年(一八六二)に勧請されているが、伎芸と水の神が山中にあるのは場違いな感じを受けないわけではない。しかし、材木伐出しの請負人や杣と日用が願主であることから、山とは全く無関係とは言い切れず、あえて推察すれば川狩りによる運材が円滑に行くように祈願したのであろう。
この弁財天や中切の天神宮に合祀されている守宮大明神[文政一三年一八三〇]の様に、創建当時の願主の願いが分からなくなり、現在の常識では祭神の解釈ができない小祠がある。また、上田(かみだ)のジンデンに鎮座する乳児宮(ちごのみや)[稚児宮]の天保一四年(一八四三)の棟札は、秋葉大権現、神明大神宮、八幡大明神[大菩薩]の三社が合祀となっているが、嘉永七年(安政元年)(一八五四)には、三祭神はかわらないが「乳児御宮」名が棟札に書かれている。この乳児宮の名称は創建後に小祠にまつわる因縁話ができたと考えられ、この三社を合祀する小祠を乳児宮(稚児宮)と、称する様になったのであろう。