恵那ヶ嵩 中津川宿内より南 但シ中津川宿より麓まで二里 頂上に七社これ有り候
と、書き、恵那権現、役行者、富士権現、神明、剣権現、和光同塵、熊野権現の七社をあげている。また、恵那山の東麓にあたる湯舟沢の諏訪社には恵那権現が合祀されている。このことは美濃と信濃両国にまたがり、恵那山信仰があったことを示している。この湯舟沢村に隣接する尾張領落合宿村の、木曽方庄屋であり宿問屋でもあった塚田弥左衛門家の控帳「塚田手鑑」には
一 恵那山権現 七社 勧請年不知
但シ 恵那山勧請之義 先祖市岡氏建立之事ニ候所 手金野村祢宜奪イ取リ申候故ニ棟札コレ無ク相知レ申サズ候
と、恵那権現の所属をめぐり落合村弥左衛門と、手金野村祢宜との間に何らかの軋轢(あつれき)があったことが書かれている。
この、塚田手鑑から察すると、落合から山頂に鎮座する恵那権現社までの参道があっても不思議ではない。また、恵那山への登山道としては、川上の正が根を経て六つの摂社を参拝しながら登る山道と、近世の恵那権現への登山道かは判然としないが、古代の祭祀遺跡として著名な神坂峠を目指し、強清水(こわしみず)と水またぎのほぼ中間にあたる追分(おいわけ)から頂上に至る登山道がよく知られ、この湯舟沢からの道は古代の道でもあり、強清水や水またぎからは東山道当時の遺物が採集されている。現在の恵那山への登山道は黒井沢経由が一般的となっている。
中山道三留野宿の神職園原旧富の「美濃御坂越記」は
「……山上に鎮座 神名 所伝ヲ失イテ知レズ」
と、神名に関したことが伝えられていないことと
「……村民ヲタケサマ(御嶽様)ト云フ……」
と 霊峰、高峰としての尊称「嶽」で呼ばれていることを記している。
中川旧記(胞梺雑誌略草)には「小木曽彦十方控ニこれ有り」と、「永禄四年(一五六一)九月 願主小木曽五郎兵衛 天正四年(一五七六)七社共再建」の棟札があったことをあげている。正徳三年(一七一三)三月の再建の記録では、
・本社[恵那権現] 長さ八尺五寸巾七尺
・和光白塵 弐尺四方
・剣権現 弐尺五寸四方
・神明 四尺四方
・熊野・富士・役行者 各三尺四方
と、社殿の大きさが書き上げられている。この正徳の書き上げを除き、慶長一四年(一六〇九)以後の棟札の記録はⅣ-70表としたが、萬治元年(一六五八)と享保九年(一七二四)の神明社の棟札の写は、願主が「川上村」「大小氏子」と、なっている。これは、神明社が川上の産土神であることを示している。それに、享保一一年(一七二六)の川上村寄進の剣権現を除くと、願主が地頭の山村氏となっている棟札が大半をしめ、寛文一〇年(一六七〇)以降はこの傾向が顕著となっている。恵那山に鎮座する七社のうち、川上の産土神である神明社を除く六杜は、いずれも山岳信仰を基盤としており、修験道とのかかわりも深く、また、中川旧記には松源寺[手賀野臨済宗]の言い伝えとして「元禄十六年(一七〇三)迄ハ寺持ニテ七月廿七日祭典ノ節ハ大般若経転読シタル」と、記述されている。
Ⅳ-69 恵那神社 前社
Ⅳ-70 恵那山七社の棟札写の年代