九月十七日 恵那山参り 清身(精進)に入り申候 内ノ差合(さしあ)い故 兵右衛門方ニ而
同 十八日 川上江参り 雨降り申候 兵右衛門 平八 長蔵 私 正金[正が根]太郎平泊り 半右衛門 彦蔵 久蔵 銀之助 彦十 文助ニ泊り 九ツ[午前零時]上り掛り申候
九月十九日 昼九ツ時[午後零時]ニ川上江帰り 七ツ半刻[午後五時]ニ内江帰り
と、藤四郎らは参拝をすましている。また、慶応二年(一八六六)に書かれた茄子川村鯉か平の久左衛門日記には
九月十七日 恵那山へ参詣 中村[中津川宿村の在郷]泊り 伊之助同道
同 十八日 川上村高橋辺まで夜之内ニ行く長蔵も同道 九ツ頃[午前零時]登山致ス 峯雪降ル 同日川上瀧ケ沢迄帰リ泊ル
同 十九日 九ツ頃[午前零時]迄瀧ケ沢ニ居ル 御前堂参詣人夥敷 中村上田ヘ寄リ それより加納屋ヘ寄ル 日暮レニ帰ル
と、登山の様子が書かれている。阿木村や飯沼村などから、龍泉寺道を通り川上へ下る道、それに、中山道沿いの村々などから、川上川を溯上して登山する二つの道を日記から抜き書きしたが、いずれの恵那権現参拝も九ツ時[午前零時]を期して登山を始めている。これは、山頂にて御来光を迎えるためであろうか。それに、阿木村や飯沼村方面から参拝しても、中津川方面からの参拝であっても川上に一泊していることが分かる。
Ⅳ-71 川上庚申堂の役小角像
久左衛門日記には当日のことが「御前堂参詣人夥敷」と書かれ、天明四年(一七八四)の藤四郎日記では、
「九月十九日 庄治郎川上湯立江参り 八十八も参り」
と、川上のいずれの場所かは、この日記の記事からは判断しかねるが、飯沼村から湯立に参加している。また、御前堂は参籠するためにも利用されており、久左衛門日記に書かれている御前堂の参詣が盛んになるのは、きわめて新しいことであろう。
藤四郎が「差合(さしあ)い」のため精進潔斎を兵右衛門方にて行っているが、この差合いとは婦人の月の障りを言い、血を見ることを禁忌としていたことが分かり、このことは女人が恵那山へ登ることを制限するか もしくは禁じていたと考えられる。このほかに民泊した事実も宝暦一四年(明和元年)(一七六四)の日記から知ることができる。
恵那山に登山し権現社を参拝することは、九月一九日の祭日だけでなく、雨乞いのときも恵那山に登り祈願していたことが藤四郎日記にもしばしば見られ、この時は恵那権現の社守である手金野村在住の祢宜宮原氏より、鎌を借り受け雨乞いを行っていた。天明五年(一七八五)六月飯沼村は雨乞いのため、恵那山へ次の様な日程で登っている。
六月十六日 恵那山江登るつもりにて 子供精心(進)仕候
同 十七日 御寺ニてしようじん仕候
同 十八日 又四郎 私 亀五郎 庄治郎 文助 増治郎 浅右衛門 銀治郎 八十八 又六 義兵衛 都合一一人 九ツ時[午前零時]川上源四郎方江参り 男ヲ頼ミ御山江登りこもり申候
同 十九日 又九ツ時[午後零時]ニ川上江下り 七ツ時[午後四時]ニ川上ヲ出候テ あせほ坂に参り候処 大雨ふり出し申候
と、あるが、おそらく飯沼村を出発したのが夜も更けてからであったろう。九ツ時[午前零時]に川上へ着いた藤四郎らの一行は、案内人を頼み雨乞いの登山を行っている。この年は雨乞いの後、あせほ坂で雨にあい以後三日間の降雨を見るが、未曽有の大旱魃となった明和七・八年[一七七〇 一七七一]の恵那山においての雨乞いではその効果はなかった。明和七年(一七七〇)の閏六月六日から七日にかけての雨乞いは、山頂まで八名の者が、御前堂では一〇名が籠り酒五升と赤飯一斗を持参している。
恵那山は周知のごとく地元民には親密な山でありながら、恵那山とその信仰に対して確たるものがない。近世史料によりその信仰の解明を心がけたが、空白の部分が多すぎる。藤四郎や久左衛門日記は恵那山登山の実例を知るには貴重な史料ではあるが、この日記により信仰の全容を知るわけにはいかなかった。
恵那山信仰について、神名などをめぐり江戸時代中期後半以降に様々な考証がなされるが、いずれの説もその信仰を的確に実証してはいない。宝暦元年(一七五一)岩村城下の医師首藤元震は厳邑府誌を著し、飯妻[飯沼村]の項、神明森の由緒の中で
「……俗説に曰(いわ)く 上古日神(天照大神)恵嶽に降り 其の胞衣(えな)を蔵するに因って 胞山と名づくと……」
と、恵那権現の神名由来の伝説を書いている。この一文は血洗社を神明社とする伝説と共に、多くの文献に引用されているが、
「……妄誕(もうたん)固(もと)より信ずるに足らざるなり……」「……俚俗幾多の妄説を附すなり……」
と、まとめに首藤元震が伝説を否定する見解を述べている部分を削除しており、全文を引用し恵那権現社を考証している文献は見あたらない。
「……又池水に産穢を洗うを名づけて 血洗池と曰う[竜泉山に在り]。……」
と、厳邑府誌にある血洗社を阿木村の古記録「阿木村境目之事」は
「ちあらい之儀ハ恵那権現之末社ニて大野村左次右衛門堂立て来り候事 其後 龍泉寺立候節大工共き志んニ而立申候」
と、恵那権現の末社であるとしている。
この様に恵那権現に限らず、その由来などが様々に変わるのは、人々の初心が忘れられた結果ではないだろうか。また、そこには本来の信仰とは異なる力が働き、その本流はあるが民間に流布する信仰は、その時の都合により変化し、変化させられるものである。
胞山(えなさん)、血洗い伝説を厳邑府誌からとり付記する(市史中巻別編・村の記録)。
(前略)太神廟(飯沼村神明社)は邑中に在り 社樹欝蒼たり 俗説に曰く 上古日神 恵嶽(恵那山)に降り 其の胞衣を蔵するに因て 胞山(えなさん)と名づくと[国俗に胞山を呼んで恵那と云う] 又池水に産穢を洗うを名づけて 血洗池と曰う[龍泉寺山に在り] 又胞糸を断つ鎌有り 蔵して三森神祠に在り 遂に此に鎮座す[太神廟は其の遺跡なり] 又卜(ぼく)して伊勢度会郡に遷る 故に伊勢廟の材は恵嶽の材木を用う 今に至るも猶然りと 妄誕固より信ずるに足らざるなり 然れども国史を観るに 曰く 垂仁天皇二十五年 倭姫命を遣し大神鎮坐の地を求めたまう 是に於て倭姫命近江東より美濃に廻り還って伊勢に到る 則ち倭姫命嘗て鎮坐を卜して此に至る 行宮と為りしこと或は之れ有るべし 而して俚俗幾多の妄説を附するなり(後略)
Ⅳ-72 恵那山の山容