産育

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飯沼村の「全国風俗御問状答書」には年中行事や信仰の他、産育、婚姻、葬送なども問状の答えの形をとって簡略ではあるが書上げられている。人が生まれて死ぬまでの儀礼を、くまなく明らかにするのは史料の関係上困難であるが、御問状と阿木村広岡(鷹見紀義家所蔵文書)の文書を中心に農民の一生をここで取り上げた。
「全国風俗御問状」には「婦人着帯五ツ月目に吉日を撰ミ」と、妊娠五か月目に腹帯をしたことが書かれ、吉日とは戌の日と考えられる。この祝いには「赤飯 肴など祝ひ遣し候」とあり、腹帯と共に嫁の親が仕度をした。出産のことが着帯から「全国風俗御問状」に書かれていることは、胎児が皆に認知され出産後も大切に育てられたことであり、間引きが行こなわれた当時には、帯祝いは重要な意味を持っていたことになる。
 出産は母屋と別棟の産屋(うぶや)にこもるか、家族と同じ棟で生活しても、食事の煮炊きは別の火で行っていた。これは「なまぐさ」と、呼ばれている後産や出血が不浄であり、穢れたものであると言う考えからきたものである。
 残された資料からは、この地方では母屋に産室があったのか、別棟に産屋がつくられていたのかは明らかでない。「諸国風俗御問状」には「子安紐」のことが書かれているが、これは天井より下げた紐に安産の御守りをつけ、出産のとき産婦がにぎるのであるが「力綱」という地方もある。このことから出産は座位で行われたと考えられる。胞衣(えな)[へその緒]は紙に包み水引で結び後産と一緒に家の中に埋められた。
 また「枕藁」と言い、二三把の藁を三束にゆい、これを枕にして産後一日たつごとに一把ずつ藁を減らして行くが、この二三把の藁の数は、産後二三日間で忌明けになることを意味していると思われる(この地方では、「おびやが明けた」と言う。うぶやの転化か)。
 文政一二年(一八二九)一二月二八日、阿木村広岡の市右衛門夫婦の間に男子が出生した。産立ちの祝いに白粉(米の粉)が重箱の数にして一八重、柿一連、着物中入綿、強飯(こわめし)をもらっている。強飯(こわめし)は市右衛門の姉の嫁ぎ先より、中入綿は妻かねの実父と宮田の与惣右衛門が持参したものである。広岡の人たちは白粉を祝儀としているが、これは母乳の出ないときの代わりであった。
 生後七日目に行われる七夜の祝いには、市右衛門の親戚や知人、それに広岡の人たちが祝いに来ているが、祝儀として酒(四三人)、肴[藁つとに田作りを入れる。](二三人)、産着(一八人)、餅(三一人)、扇子(五人)、金(三人)を持参している。肴の中には田作りでなく煮干が入っていたり、「金壱朱と御座候得共 うわかわ計りにて金壱朱無之候」と、なかみのないものもあった。この日、養吉と名付けられた。
 文政一三年(一八三〇)三月、養吉の初節供である。初節供(句)には男女の区別なく雛人形が贈られた。養吉は天神雛五躰、焼物雛一躰をもらっているが、女の子は居雛と立雛を贈られた。女子出生の場合を、茄子川村久左衛門家の「年内日記帳」より出産から七夜までを見ると次の様な経過である。
 慶応二年(一八六六)三月九日夜、妻「とよ」が女児を安産するが誕生日は翌一〇日とする。早速に出産の知らせを、中津川宿の中川、中村の成瀬、山口村[長野県木曽郡]の曽我へ出す。一二日「湯初め」とある。一六日、出生女児の御七夜、熊と名付け、祝いの客は 取揚人のおとわ、篠原のおげん、成瀬のお高の三人である。市右衛門家の養吉の七夜から見ると寂しいかぎりであるが、これは、長男と次男、男子と女子などの差があったと思われる。
 子どもが発病したときの様子を、藤四郎日記で見ると次のように対処している。寛政三年(一七九一)二月一五日、藤四郎の孫の大自郎が発熱した。翌日、枝村大野の金右衛門に診てもらい、禅林寺で祈禱してもらうが八ツ時[午前二時]に引きつけを起こしている。一七日に疱瘡と判定され、一九日には妻神(さいのかみ)の法印を頼み棚祭をする。二月二五日には「一二日祝い[意味不詳]」をし法印が籤上げし「疱瘡神御立被成候」と託宣を下している。この大自郎は翌四年(一七九二)の五月にも発熱し引き付けを起こしており、このときは、鳳来寺への代参、其他の神仏への願立てと「二〇歳までに善光寺へ御前渡りをする」願を立てている。
 享和三年(一八〇三)七月四日、津島御師、津島牛太夫手代堀田宇右衛門が飯沼村へ入る。翌五日に藤四郎は分家と一緒に御師手代堀田に麻疹(はしか)の立払いを頼み、麻疹(はしか)を宮ノ前川に松明(たいまつ)にて送り二〇〇文の謝礼を渡している。
 当時は医療機関も発達しておらず、乳幼児の死亡率が高かった。そのため、生育の過程で幾つかの節目をつくり、その節目節目に祝いごとや神仏に加護を願い、また、病気のときは加持祈禱に頼ることが多かった。幼児の時代を無事通過すると「髪置」の儀礼があり、一五才で「元服」をし、一人前として扱われるようになった。女性の場合は「鉄漿(かね)つけ」などの儀礼があるが史料がなく、この地方で行われていたか分からない。なお、髪置や元服の儀礼が一般的なものか、階層による範囲があったかも分かっていない。