若キ者

838 ~ 839 / 922ページ
元服を済ますと一人前として扱われ、若キ者の仲間に入るわけであるが、仲間入りの儀式や若キ者の年令の制限、それに若キ者を脱(ぬ)ける条件や、どのような構成になっていたか、また、仲間うちの取決めごとなど全く分っていない。村内において若キ者の役割は数多くあり、行事などに関係したことは、飯沼村藤四郎日記の中から紹介することにする。
 寛政一年(一七八九)一二月、忠左衛門の婚礼に「挨拶不宣候」と、両者にわだかまりができ、若者が腹を立て祝儀などを取り返し酒を飲み、「酒代勘定致シ 彼是難渋し相済申不」と、結婚式後の後始末ができなかった。そこで五人組、中老の又四郎、伝右衛門、又六が若者と交渉にあたり、彼等が若者に断(ことわ)ることで解決するが「二・三日大もめ」とある。
 寛政四年(一七九二)閏二月には、家の普請をすることになっていた義左衛門夫婦が、若衆の悪口を言っていることを聞き出し、建方を請渡してある真原(さなはら)の大工に普請の手伝いに来ないよう若衆が書状を手渡したので、大工も普請に来ず、そのため阿木村の平左衛門が飯沼に来て中老に仲裁を頼み、中老の証人で義左衛門夫婦が「誤り一札」を書くことにより解決するが、一三日から三日間の普請立ての予定が一日ずつ送られる結果となり、このもめごとは解決するまでに八日から一三日までの六日間もかかっている。
 安永二年(一七七三)一〇月二七日の湯立の日、飯沼村の若衆が獅子の奉加に村を廻り、藤四郎は銭一〇〇文を渡している。獅子廻しは七月一五日の夜に行われている。この三例でも分かるように、若キ者が婚礼、普請、祭礼などへの関係を持つことが当然のこととされており、婚礼、普請の例のようにどちらに非があるか分からないが、相当な無理も通していた。
 藤四郎日記には若衆、若キ者の二通りの書き方がしてあり、書かれていた通り文中に入れたが、対外的な文書には若キ者が使われており日記を引用した他は若キ者とした。