荒備貯蔵

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江戸時代の農民、宿の商人などの生活は、そのもとに連帯責任と相互監視、相互扶助の規制と意識があり、年貢上納、宗門改めなどでは、特にこの規制と意識が要請された。
 個人的に荒備貯蔵ができる余裕のない農民にとって、水旱損の災害、病気などに対して備えをなしうる余力はない。従って不凶作・災害・病気におそわれると、生活困窮におちいる者が多かったし、年貢上納困難者も多くなった。
 幕府は、天明の大ききんの後、穀物の外に木の実・草の根など食糧となるものの貯蔵を奨励したり、天保一二年(一八四一)には各村人数に応じ、五か年に六〇日分の籾を囲い、郷蔵または有力者の持(もち)蔵に貯蔵することを触れている。この囲籾の記録は、岩村領各村にも残されている。尾張徳川家関係では、寛文四~五年、免相四ツ五分二厘六毛余のうち、二厘六毛を夫食金貸与の資金(米五六三石、金五九四四両)として凶荒に備えた。また寛政二年(一七九〇)から、蔵入地や地行地ともに女子一四才~六〇才以下の持(もち)高に応じて綿布役銀を課して、この役銀を奉行所に集め、凶荒に備えた(市史・中巻別編)。
 弘化三年(一八四六)広岡新田庄屋市右衛門が調べた「庄屋下書」の中に「籾・麦・稗預り一札」がある。代官所へ届けた預り書の下書である。
 
     預り申御籾麦稗之事
   一 御囲籾    拾俵
   一 大麦     弐拾壱俵壱斗弐升
   一 稗      四拾俵四升六合六夕六才
   右之通御蔵ニ納置慥ニ預り申候処実正ニ御座候
   何時ニ而も御差図次第可仕候 爲後日 仍而如
   件
      丙午十二月    広岡新田
                  百姓代 印
                   組頭 印
                   庄屋 印
      平野孫右衛門様
                               (広岡鷹見家文書)
 
 これらは、幕府を始めとする支配者側の荒備政策であるが、農民自身が相互扶助の精神で救済を行い、また、家屋修理や作付資金などの目的で広く行われたのが頼母子講である。
 広岡新田には、庄屋文書として「御囲籾・大麦・稗貸付覚帳」嘉永四年(一八五一)がある。
 
  ・御囲籾貸付 籾一俵 平右衛門以下一〇人に貸付 他に
   村囲籾二俵 善七 おすへ(代判七左衛門)
  ・大麦貸付 一八人 一人一俵 一人二斗、一人一斗二升
   合計一七俵一斗五升貸付 うち五俵役元預り
  ・稗貸付 稗四〇俵四升六合 二九人 一俵 二斗三升
   六斗八升 三斗六斗などにかけて貸付
  右之通 村々御預りの大麦 稗 不残困窮者江御救として
   下置かれ候 以上
   嘉永四辛亥年十月    庄屋 市右衛門
                               (広岡鷹見家文書)