岸右衛門取立頼母子

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つぎにあげた頼母子講の例は、千旦林のもので、同村の岸右衛門が庄屋佐左衛門を証人としてはじめたものである。寛延二年(一七四九)岸右衛門が頼母子給付金を受取った時の手形は次のようである。

 

  頼母子手形之事
一当村岸右衛門巳暮不賄ニ付 御仲間衆中爲拾
人と金子弐両弐分御持寄被下 慥請取申候実正
也 此送り金壱ヶ年金子壱分弐朱宛来午暮ゟ卯
暮迠 中年十ヶ年之間、講之元被成之方□急度
出可申候 此質入ニ我等之家財質入ニ仕 若送
り金壱ヶ年ニ而相滞申候ハバ 右書入御仲間中
御取御支配可被成候 其節一言之儀申間敷候為
後日手形仍而如件

        千旦林村本人 岸右衛門 印
        同所  庄屋 佐左衛門 印

 寛延弐年
  巳十二月
  御仲間衆中

 岸右衛門は「不賄ニ付」(金銭がなく非常に困る)と 頼母子講を発起し、要蔵以下の「仲間衆中」を得て 寛延二年(一七四九)にはじめたもので、宝暦八年(一七五八)まで 毎年一回の講会で、前記のように寛延二巳年より宝暦八寅年までの給付金受取者の予定をきめて出発したようである。寛延二年~宝暦五年に岸右衛門への給付金を含めて「頼母子手形」八通分から頼母子講の様子を表にしたのが Ⅳ-73表である。

Ⅳ-73 岸右衛門取立頼母子講(寛延2~宝暦8)一覧表

 これによると、
 ① 岸右衛門取立頼母子講は一〇人の仲間衆中をもって、一口金一分、年一回の講会の計画で、寛延二巳年(一七四九)~宝暦八寅年(一七五八)までの落札予定者(実際には宝暦三年一二月一六日連中立合で改められている)をきめて発足している。
 ② 岸右衛門「不賄ニ付」発足した頼母子講であるから 第一には岸右衛門が、一〇人の仲間衆中が金一分宛持寄った合計金二両二分の給付を受けた。この給付に対して岸右衛門は翌午年(寛延三年)から卯年(宝暦九年)まで、一〇年間にわたって一年に金一分二朱を送り金することを契約したわけである。年に金一分二朱の一〇年間であるから合計で三両三分を支払うことになる。
 ③ 要蔵以下の仲間衆中の中には、半口という場合もあったが、口数でいって一〇口である。
 ④ 仲間衆中は「元仕り」で持寄られた頼母子の給付金を受取ってからは 送り金を提出しなければならないが、その期間は短縮している。(給付金前の掛金については資料がない)
 ⑤ 仲間衆中の中に「年貢ニ相立テ」とあるように 頼母子講給付請取金をもって 年貢にあてていることがわかる。
 ⑥ 送り金を出せない場合の担保・質入れとして「家財不残」と「家」をあてているのが この講の場合は多い。
 ⑦ この頼母子講についての「頼母子手形」は、宝暦五年(一七五五)の大林寺半口、小平次半口の分まで一括して現存するが、それ以後三年分の「頼母子手形」がないこと、受取人順を宝暦三年(一七五三)「連中立合改」で変更していることなどにより考えて、この頼母子講は発足以来 順調に給付、送り金などがなされたとはいえそうもないと考えられる。
 以上Ⅳ-73表を中心にして、①~⑦まで岸右衛門取立頼母子講の実際運営についてふれてきたが 頼母子講が相互扶助として成立つには、仲間として送り金が確実であること、講本人の人柄などが条件となってくる。
 この岸右衛門頼母子講は、千旦林村内の中以上の百姓で始めた村内の頼母子であるが、金一分の掛金は、誰でもよい近所づきあいというわけにはいかない。つまり近所づきあいが、そのまま一定額の金融を通じての扶助を構成した場合は、この岸右衛門の場合より、金額的に小さい講であったようである。
 その例として、茄子川村では「文政十二年金壱両壱分頼母子帳 丑十月 発起 小助」と、いうように、岸右衛門の場合の半分の「金壱両壱分」の頼母子帳が残されており、所見した頼母子帳の中では、小助発起の頼母子講程度の金額の講が多い。小助の頼母子手形は次のようである。
 
   手形之事
 一 金壱両[印]壱分也
  右は当冬諸賄ニ差詰り 各々様江御願申上頼母子講□御発
  立被下 只今 金子慥ニ借用申処実正明白也爲質[印]入居宅壱
  軒書入申候 送り金之儀は 急度定日ニ相送り可申候 万
  一相滞り候節ハ諸人右質物致支配急度御勘定相立 少茂御
  連中様江御損御苦労等相掛ケ申間敷候 為後日証文仍而如
  件
   文政十二年丑十二月
                 本人 小助 印
                 請人 長吉 印
  御連中様           同断 九七 印
          [相改受人ニ成テ] 勘四郎 印
 
 小助が「当冬諸賄ニ差詰」ったのを、茄子川村内の百姓一〇名が、本人の依頼を受け入れて金を出しあってやると同時に、小助が返金してしまう一〇年間にわたって、頼母子講がつづくことを願った。この頼母子帳によれば「丑年 小助 寅年 銀助 卯年 由右衛門 辰年 良達 巳年 吉左衛門 午年 宗七 未年 久治……」と つづいている。小助が受取った翌年から、一〇年間つづいて金一両一分を受取っているわけである。天保三年(一八三二)の良達の番は下記のようである。
    覚
 一 壱両壱分
  右ハ私取番ニ付借用申処実正也 送り金之
  儀ハ割合之通り 急度相送り可申候
   天保三年      本人 良達
             請人 □吉 他五名

「割合之通り」とあるが、くわしいことは分からないとしても、取金は金壱両壱分と同じ金額でいっていること、「取番ニ付借用」という表現であり、講員から借用したのだとはっきり記されていることから相互救済の考えがでている。農村の近所つきあい的互助の考えと親睦の考えが強くなると、庚申講のようなものになる。