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仲間を結び、庚申の日に当番の家に集まり飲食をともにして、社交娯楽をするとともに、頼母子も行って互助の役割をしたものに、庚申講=頼母子講的なものがあったろう。こうした仲間で立てたものが庚申塚(塔)である。
 同じようなものに観音講がある。安産祈願、豊作祈願と結びついて、さかんに行なわれ、頼母子もくっついている場合が多かった。参詣旅行費を出しあい交代で参詣する伊勢講、秋葉講も(市史・中巻別編九二〇頁久左衛門日記)一種の頼母子であろう。庚申講・観音講に似たものに御日待があった。こうした講には明治以後もつづいたものがある(第七節信仰と講参照)。
 この他に広岡新田に資料が残るが、屋根の葺替無尽のように物資と労力を出し合う頼母子、御宮無尽(茄子川、久左衛門日記)、というように、伝統的民俗信仰と金銭・物資または労力提供などを共同で融通し合うことが結びついて行われたのが、地縁を軸にした運命共同体である村の頼母子講の形であった。