頼母子取金譲り

850 ~ 851 / 922ページ
頼母子取金の番を譲ってやることもあった。譲ってほしいと「頼母子手形」を出した方には「無據入用」と、どうしても、そうしなければならない理由があったのだろう。その手形は別記のようである。
 寅吉が中新井久々利方庄屋儀兵衛の頼母子取金を譲ってもらって、金弐両弐分を受取り、そのかわり送り金は満会[無尽の終り]まで、きっと送るという「頼母子手形」である。
 
   頼母子手形之事
  一 金弐両[印]弐分也
  右ハ当丑三月 貴公様取番ニ当リ被成処
  □無據入用ニ付 貴公様ゟ右之無尽申受
  金子只今慥[印]受取申候処実[印]正也 尤此送リ
  金万会迠急度相送リ可申候 若送リ金
  壱ヶ年ニても相滞申候ハバ 受人弁金致
  貴公様江少も御そん相かけ申間敷候
   嘉永六年
       丑三月
                   本人   寅吉 印
                   受人   文助 印
      中阿らい         同断   清蔵 印
        儀兵衛殿
 
 このように頼母子の送り金や頼母子取金をめぐって、金銭の融通、田畑の持主の変更があった。この事は江戸時代農村が村の中から変っていった理由の一つになっている。