・各村の村役人級百姓を横に結びつけて行なわれた融通講的なもの。
・東美濃九宿の宿役人や有力商人を結びつけて行われた、宿救済や商人救済をねらった救済講的なもの。
・領主・代官など支配者が発起(殿様無尽)して、村へ割当て(村方無尽)調達を目的とした借上色の濃いもの。
など、村を越えて広範囲にわたって行われた。江戸時代の後半、特に幕末にはこれらの無尽が資料的にも多くなる。それだけ貨幣経済の世の中に変化していったわけである。前記三項目の無尽の例をあげると、
◇駒場村役人発起無尽(久左衛門日記)
慶応元年十月二十四日 駒場村儀右衛門発起無尽終会、名代伊之助を遣す。
(茄子川村久々利方庄屋の藤井久左衛門が、同じ久々利方の駒場村の儀右衛門と無尽講をしていることがわかる)
◇細久手御救講(中津川・市岡家文書)
東美濃九か宿(鵜沼、太田、伏見、御嵩 細久手、大久手、大井、中津川、落合)は、共に尾張領であって、宿の施設とその助成、宿定人馬のこと、助郷などにつき幕府や尾張徳川家への嘆願など、九か宿が共同行動をとったり、火災による宿の復旧費の調達、宿運営費の不足についての融通、救済を相互にはかった。
こうした宿の困窮、救済には、尾張徳川家が責任を持たなければならなかった。安政五年(一八五八) 細久手焼失後、尾張徳川家太田陣屋の指導によって「細久手御救講」がはじまった。
細久手宿御救講について、尾張徳川家太田陣屋の指導によって、加入している落合宿脇本陣で、木曽方庄屋の弥左衛門の請書である。御救講には落合宿として加入したのであろう。
この細久手御救講に中津川宿では
一 金百七拾五両 中津川村分
一 金五拾両 菅井嘉兵衛分
一 金八両銀弐拾匁 成木治兵衛分
の掛金を提出している(市岡家文書)。
乍恐請書之事 細久手御救講之内一分 但百五拾両分 以上籤引□ 右之通御加入被仰付 奉畏候 依之乍恐御請書差上 候 以上 辛酉四月 (文久元年) 落合宿 庄屋 塚田弥左衛門 印 馬場勘之助様 御陣屋 (市岡家文書) |
この細久手宿「御救ニ付き融通」の、取締り方は太田宿福田七郎右衛門であり、「世話人共」として、中津川宿からは菅井嘉兵衛・市岡正蔵・間杢右衛門 高木伝兵衛 間半兵衛、落合宿から上田庄蔵、茄子川村の篠原長八郎などが大久手宿問屋森川清左衛門、細久手宿問屋(平岩)酒井吉右衛門ら、計一三名があげられている。一三名中七名が中津川関係分である。