二十七会講

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岩村松平家の場合について一例をあげる。文政九年(一八二六)岩村城主は松平乘保から乘美になった。乘美は財政の建てなおしのため、経済に明るい丹羽瀬清左衛門に治政をまかせた。この財政再建が本格化する前年つまり文政一一年(一八二八)に「岩村領内の二十七会講」がはじまった。この年は阿木村役人が多数罰せられ、阿木村など支配の代官橋本祐三郎が死罪になる前年で、二七会講はこの一件とも深く結びついている(第一〇節騒動参照)。
 二七会講は前述の通り文政一一年秋に第一回をやり、それより年二回で二七回まで、年でいえば、天保一二年(一八四一)の秋が、二七回目の満会になる予定であった。この間、春の場合は各村とも四月七日~一〇日くらいに集められ、四月一四日に提出された。
 阿木村枝郷広岡新田では、第一回(文政一一年秋)に合計銀六〇二匁五分三厘八毛を集めている。このうち二匁五分三厘八毛は割当より過分であったとして、銀六〇〇匁が本村阿木村庄屋の許へ出された。この金額は金になおすと一〇両となる(銀六〇匁=金一両として)、広岡新田ではこの金額を、一一組七四名の百姓と大野村[飯沼村枝村]から入会の百姓四名に割当をしている。この割当は個人の高に応じて割当てられたもので、例えば
 
  高二石二斗六升四合  銀七匁四分一厘  兼三郎
  高一石七斗八升六合  銀一分三厘三毛  平吉
  高四石二斗一升六合  金二分二朱    市右衛門
 
 と、なっている。
殿様発起無尽であるから、松平家の取金が優先するが、第一回(文政一一年秋)以降の広岡新田の講金割当の判明分は次の通りである。
 第一二回 (天保五年春) 金九両一朱と銀四匁二五分
 第一三回 (天保五年秋) 金八両三分三朱と銭三九文
 第一四回 (天保六年春) 金八両二分二朱と銭三一九文
 第一五回 (天保六年秋) 金八両一分一朱と銭二七〇文
 天保七年(一八三六)春が阿木村取金の番となり、取金総額六六五両であった。しかし、天保六年に阿木村全体[枝郷を含む]として、生活困窮のため金四九八両三分を拝借しているので、その分を差引き、実際には金一六六両一分を取金としている。これは親金一両に対して、金一両二分二朱と銀二匁二分にあたる。だから広岡新田は親金一〇両であったから、金一六両二分二朱が取金となるわけである。ところが前年の生活困窮のための拝借金の利子が、金二両一分三朱余あるから実際の取金は減少となる。
 これを広岡側では
 
   申四月御無尽一六会目掛ト返金
   元拾両分 金六両三朱 永三二文九分五厘
   未十月拝借 元四拾九両三分二朱
         利 弐両一分三朱永五六文□
         金八両二分三朱
 
としている。
 この二七会講とは別に、天保五年(一八三四)申午年「御殿様御無尽」が新規にはじまり広岡の百姓代茂左衛門、組頭市右衛門、亀右衛門[翌年より庄屋]、庄屋弥左衛門の四名連名で、広岡新田の約半数の三五名から集めた金三〇両を御用達衆中に納めている。以上のことから、これら殿様無尽の農村生活への影響を考えてみると、
 ①無尽の割当金は、阿木村全体(八〇両(本村)・高持一九四名、一〇両(広岡)・八〇名)と広岡新田の金額から推量してみると、新田村より本村[古田村]の方が約三倍の割当率となり、負担が大きくなっている。
 ②村に割当てられた無尽金は、村内で個人の石高に応じて分けられ、この掛金負担のため借金をしなければならない事例もあり、これらの無尽は相互援助の無尽とはなり得なかった。阿木村では、この負担について文政一一年(一八二八)一一月、この「二十七会講」の取扱いに付き、村内田中の若王寺(にゃこうじ)の森に集まり、掛金負担が重いのでその対策を話し合っている。それが、徒党とされ、多数の逮捕者を出している(第一〇節騒動参照)。
  申春(天保七年)御無尽拾六会目
    取金 金六百六拾五両
    内四九八両三分 未十月拝借
    引而
    金壱百六拾六両一分申取
    但親金壱両ニ付壱両二分二朱(銀)二匁二分
    親金拾両 広岡新田取金拾六両二分二朱
    右之通相渡候 御加入口 割渡可成以上
    丙申四月一七日      本郷庄屋
      広岡庄屋 亀右衛門殿

 この阿木村の例でも分かるように、この二十七会講に対する領民の不満は強く、天保七年(一八三六)に、岩村領内五二か村の村役人が一致し、「不顧恐無余儀次第御願之事」の連判状を差出し、丹羽瀬清左衛門の治政改革批判をした二一か条の中で
 
 文政十一年 御発起あそばされた御無尽の儀 御救と思召の御取立にあいなり 落金頂載[戴]の節は、村方一旦は潤にもあいなり候へども 右掛送り方の儀は 銘々借入金並に質物等にて 金子取りまかない候間 利に利あいはらい候て年々積り候ては多分の儀にて 必至困窮仕候事
 
 と、窮状を訴え、岩村松平家の収入増になっても、領民の救済にならないことを書き、「二十七会講」に反対していることを明記している(第一〇節騒動参照)。この他にも「殿様無尽」は度々もたれており 特に幕末に近づくにつれ盛んになった。このことは岩村松平家だけではなかった。