享保六年(一七二一)二月に幕府が令した「村方へ申渡可置書付」の中の一項に、
惣て百姓何事によらず大勢相催し神水を呑み誓約を致し 一味同志徒党ヶ間敷義堅く制禁之事
と、農民が多勢で集合することを禁じている。明和七年(一七七〇)四月の徒党を禁じた制札では、徒党の他に、
「……ととうしゐて(強いて)願ひ事くはだつる(企つる)をごうそといひ あるひは申あわせ 村方立のき候を てうさん(逃散)と申 前々より御法度に候條……」
と、徒党、強訴、逃散の禁止を農民に確認させており、また、これらの事態を鎮圧した者や密告した者には褒賞を与える制度をとっている。
近世の百姓一揆とは、領主の支配に対する農民闘争(柏書房・日本史用語大辞典)と言い、小野武夫氏の農村社会史論考によれば、百姓一揆・打毀しを政治的原因と経済的原因に分類し、政治的原因の中には役人の非行として幕・藩吏、それに村役人の非行をあげている。これまでは村役人の非行に対する騒ぎを村方騒動として扱っていたが、村役人を治政の末端機関と考えると、村役人に対して一般農民が自分達の要求を通そうと集団交渉に当たれば、一揆として扱うのが当然であろう。
例えば、尾張領茄子川村では、慶応元年(一八六五)九月、不作により小作米の三割引きを要求し、村役人と交渉しているが、最初は「役元ニては取揚不申候」と、交渉は不調に終わり、再三の交渉により掟米[小作年貢]一俵に付き四升ずつ引くように取り決めている。交渉を始めたときは小作人約七〇名が参集したが、様々な切崩しがあったのか、最終的には五四名の仲間となり、「当番橋戸方ニ而其夜明ル」と、書かれているように、ねばり強い交渉と「小作之者連印ヲ取候様子風聞も有之候得共」と、連判書を認めて小作人の結束を固め事に当っている。もし、この一件の交渉が不調となり、暴動、打毀しとなった場合は、後世に一揆として伝えられるだろうが、解決した問題は表沙汰になることはなかった。
また、一揆のように支配する者が外聞をはばかる事態は隠蔽されたり、都合のよいように解釈され、その経過を記録したものが目に付くのを恐れてか反古(ほご)紙に書かれた例もあり、そのため一揆と村方の騒動を発生した状況や解決の方法などにより分類するのは、なかなか困難なことである。
明和の制札を基準として一揆を考えると、この地方でも多くの一揆の事例が潜在している。延享四年(一七四七)七月の尾張領助郷四か村と中津川・落合両宿の紛争は、大坂番衆の通行のとき、宿が伝馬触れで割当てた人馬を触れ通り出動させず、手金野村を除く三か村は尾張徳川家郡奉行所にて叱責を受けた。この問題は過多人馬を触当てたことに対して、不正があると見なした助郷村の抵抗であったが、焦点がぼかされ、人馬の雇賃銭の支払いと返却の問題にすりかわっている(第六章参照)。
慶応二年(一八六六)四月、日光例幣使通行の助郷人足割当ては一〇〇石に付き九人割であるが、茄子川村は五人割として人足が勤めに出ており、また、助郷の組替えにより落合宿寄付(よりつ)きとなった岩村領阿木村と苗木領助郷八か村は、三月初旬より助郷に出勤をしていない。これは完全な罷業行為であり、この様な村々の態度は明らかに助郷制度に反対の意を示したものと言える。この二例を一揆と見なすかどうかで意見は分かれるが、二例とも助郷村の談合と村々の連携によって起こされている。
このように徒党を組むことや不隠な動きを一揆と呼び、生活の窮状などを、領主らに訴える場合も「愁訴」「越訴(おっそ)」「直訴」「強訴」と訴える形態により呼称が変わるが、どの場合も訴人の罪は重かった。一揆は時として「打毀」と言う最終手段を選ぶ場合もあったが、現在の中津川市を構成する近世の村々においては、その事例を見出すことはできない。この節では「騒動」をとりあげるが、騒動を広い意味で考え、この標題の中に一揆を包括することにする。