落合村の越訴

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尾張領落合村は、山村甚兵衛、千村平右衛門の知行所として、両地頭と尾張徳川家の支配を受け、また、落合宿として道中奉行の支配下にあった。宿駅関係の用務を除くと、尾張徳川家と両地頭に仕えるわけだが、諸要求を嘆願などする場合は村役人(宿役人)から知行所の役所を通し、尾張徳川家の役所に願書を提出するのが順序であった。
 享保一五年(一七三〇)一二月二四・二五日の両日、落合宿の伝馬役の者一二名が、喜左衛門ら四名を代表として新田の年貢を検見取りにする様に、願書二通を尾張表郡方代官手代原只平次に提出したが、年内は余日がないので来春に出直すように命じている。このことを落合村役人は原只平次より内々に書状によって知らされ、早速、宿問屋と年寄が名古屋へ出かけている。この願書には他の聞き入れてもらいたい問題も書かれていたが、
 
 外之事ハともかくニ候へ共 新田見取之儀 表立ち候ては六敷(むつかし)く
 
 と、新田見取り願いの件のみを重視している。とにかく
 
 御地頭様江相背(あいそむ)き尾州江直訴仕候
 
 と、直訴を決行したのだから、事が大きくならず、関係する者が落度として処分されずに体面を保てるような解決を図るため、願書を差出したものの口書(くちがき)を取り両地頭の支配所へ提出することで、直訴した者たちと宿役人の間で話を決めているが、
 「宿役人差置き直訴仕候科(とが) 其外不届き有之……御地頭様方江所(ところ)御追放(おついほう)も仰付けられ候所……」
 と、罪状が書かれている。処分は一二人入牢、内四人は手錠をかけ入牢の処分を受けるが、その期間はごくわずかであった。しかし、手錠の四人は釈放後も戸締め処分を受けている。代官手代原只平次の処置は、この一件を小さいうちに片付けることを考えて行われており、宿役人も地頭に知れる前に、この事実の口書を取り罪科の軽くなるよう処置をしている。