他村庄屋の事情聴取

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天明七年(一七八七)、岩村領東野村[恵那市東野]では、
 「前年、庄屋が二名になったとき役料定書がつくられたとなっているが、先月[天明七年七月]定書がつくられたと聞き得心(とくしん)できない。」
 と、役料のことが発端となり、また、村勘定の過不足をめぐり騒動が起きた。告発の手段として、人目につき易い場所に役料定書などの不平不満を書いて張ったり、落したりする「落し文」「悪書」によってその非を糾すが、この者たち一一名は「村預り」の処分を受けた。
 この一件の調査を岩村松平家は、郡奉行、代官両者の立会の上で飯沼村庄屋藤四郎、中野村[恵那市長島町中野]庄屋源蔵に調査を命じ、その結果として東野村の村役人の戸締め、最終的には両庄屋が御役御免の処分を受けるが、岩村松平家は直接農民には接触せず、最後の処断を下しただけである。
 落合村の直訴、それに岩村領の二件の騒動では、宿役人や村役人が農民に加勢することなく取締りする側となり、事件の解決にあたっている。これらのことで行政の末端の組織として、村役人が村の行政にあたっていたことが分かる。この三件は明和の制札に照らし合わせるまでもなく一揆であり、東野村一件でも最終の判断が下された日、二〇〇余名の農民が岩村城下に接する富田村[岩村町富田]まで押しかけ、岩村の町役人を始め富田村庄屋、阿木村庄屋らをあわてさせている。
 享保一五年(一七三〇)の直訴例と後の二例を考えると、時代が下るにつれ農民の直接行動が目に付くようになる。とにかく、郡代や代官らが騒動などの事態収拾に動き出せば、表沙汰となって農民への処分は重くなる。だから、他領の大名家や幕府に知れることをさけ、内々に解決することが常であった。そのため処分などの大義名分が立つよう郡代や代官などの役人は表立つことを控えていた。
 安永二年(一七七三)一一月、飛驒の農民が幕府の検地に反対した「安永の大原騒動」に苗木遠山家、岩村松平家が共に出兵するが、この一揆後の安永六年(一七七七)、幕府が出した触を岩村松平家が再発布したと思われる、「徒党、強訴」などを禁じた触書が残されている。このなかには、飛驒国の大原騒動を例に
 ① 法度として「強訴、徒党、逃散、打毀」を取りあげ、
 ② 「地所改め(検地)より難渋致し越訴 国元の社地[現大野郡宮村・飛驒一之宮・水無神社]へ大勢集り 御代官陣屋迄ニ強訴ニ及ビ狼籍……」と 騒動の原因と一揆のようすを書き、それに
 ③ 「頭取の内 大胆なる働きいたし候もの 四人は磔 一二人は嶽門[高山市史・嶽死者も含み一七名] 壱人死罪[高山市史三名]、差し続き候もの一三人遠島[高山市史一七名]……取鎮め候もの共白銀下され 其身一代帯刀 永く苗字御免」
などの処罰と褒賞を書いている。天領で起きたこの一揆に幕府は威信をかけ、そのため指導者の処分は私領の場合より苛酷をきわめた。落合村、阿木村の一村騒動の処分と大きな隔りのあることが分かる。また、この触書では「願いの筋」いわゆる要求があれば
 「すべて願筋は村役人を以て 御料(幕領)は代官 私領ハ地頭ヘ訴之吟味を請ける事にて 勿論御代官 地頭非分と存候儀これあらば 其筋の奉行所へ訴えべく候……」
と、書いてある手順で願いでる様に書かれているが、運用の幅が大きく前記三つの例とは比較にならず、この手順で要求を訴えて行けば、必ず要求が通るとは限らなかった。