県内の大きな一揆の例として、宝暦の郡上一揆と、天領飛驒で起きた大原騒動をあげることが多い。宝暦四年(一七五四)に農民が蜂起し、八年(一七五八)に幕府の処断があった郡上一揆は、領主金森頼錦(かね)の改易[領知・家屋敷などを没収する。]をはじめ、老中本多伯耆守が役儀取上逼塞など幕吏の処分があり、農民側も死罪、遠島、重追放などの重刑による犠牲者を多く出している。この一揆後の郡上八幡城の城番を、青山幸道(よしみち)が入封するまで岩村松平家が受持った。
大原騒動は明和八年(一七七一)から天明八年(一七八八)までの一八年間に断続的に起きた騒動を言うが、この間に飛驒代官[安永六年郡代に昇任]は大原彦四郎紹正~大原亀五郎正純の父子二代にわたっている。安永の大原騒動とは明和八年(一七七一)山方扶持米の下給に端を発し、官材の元伐(もとぎ)り五か年停止と安永二年の総検地の騒動を言い、明和騒動の指導者で死罪となった大古井(こび)村[大野郡朝日村]伝十郎は、尾張領落合村釜沢山を明和五年(一七六八)に三八〇両の運上金で三か年の元伐り仕出しを行っている。
この二つの一揆は、幕府、郡上金森家が財政の窮迫を増石によって打開しようとしたことに端を発している。飛驒では新田と畑田[畑を田にしたもの]の検地をするとのことであったが、新田、古田の区別なく検地が行われ、飛驒三郡[大野・吉城・益田]で一万一千石余が増石されている。この一揆で苗木遠山・岩村松平の両家が出兵しており、遠山家では一月一四日より一二月一五日までに三五〇人余の農民が出役した。岩村領飯沼村では一二月一四日六〇人の出役となっており、この出役負担の他に、松平家では安永三年(一七七四)、飛驒出兵の郷夫の賃銭を各村へ割当て徴集している。
郡上金森家では、いままでの定免から検見取りに年貢の徴収方法を変更し増石を図った結果が一揆の一因となった。財政状態の悪化は、岩村松平家や苗木遠山家、それに山村、千村らの知行主も例外でなく、苗木遠山家はたびたびの御用金を各村々に割賦するだけでなく、文政九年(一八二六)には、家臣の知行・扶持米の借上げを行い半知政策をとっている。このことは、文政一〇年(一八二七)二月、領主友壽から家臣にあてた直書に書かれている。
「……元来勝手方難渋之事ゆへ 徒(いたずら)ニ心痛のみ候処 追々物入り多く、倹約等毎度申出候得共 とかく臨時之費用相重り 余儀なき筋ニて去戌年(文政九年) 一同上米申付之 深く心配いたし候……」
この上米(あげまい)は一年で廃止となったが金一三六〇両余の金が財政の中に組みこまれた。
文政六年(一八二三)、岩村松平家の財政はついに破綻をきたした。このことを阿木村広岡新田の与兵衛(鷹見)は「年代重宝記」の中で
「松平能登守様、御公儀様へ御頼ミ成られ 所々ノ金子御借方残らず返済御休み 村々拝借金御領分中村へ下され候御年貢引あて切手通用せず」
と、書いている。岩村松平家は幕府からの拝借金を四〇年賦にて決済することを願い、その他借財の返済を休みとした。それに、村々の拝借金[貸付金]を下給し、そのかわり手当金の支給をやめ財政の整理と再建に、ふみ出したのである。
文政七年(一八二四)「……御内證向追々御借財高く相成り必至難渋……」と、岩村松平家は、村役人を召集し財政の窮迫した状況を訴え、各村の氏神などの社木を伐り、その代金をもって財政の不足分を補うことを考えた。社木の売却代金の総額は不明であるが、まだ、領内全体として金六〇両が不足し、本田高一石に付き銭三文、新田高一石に付き銭一文五分、新々田高一石に付き銭七分五厘を各村へ割当て、文政七年(一八二四)より五か年間に納める様に申付けている。