岩村松平家は文政九年(一八二六)に、二万五千石[美濃領内分]へ御用金二千両を割当てた。阿木村広岡新田では金一八両を調達し納付している。この調達金の他に、文政一〇年(一八二七)二月、家臣の俸禄米の借上げを行い、翌一一年(一八二八)には、岩村松平家が講元となり、年二回取金の「二十七会講」を始める。
阿木村広岡新田では第一回(秋)の講金として銀六〇二匁五分三厘八毛(約一〇両)を一一組七四名と飯沼村枝村大野から入会の四名に割っているが、この割当ては個人の石高に応じて行い、新田より古田のほうの率が高かった。
阿木村は天保七年(一八三六)春に、この無尽取金総額金六六五両を落札するが、前年に枝村を含め阿木村全体として金四九八両三分を生活困窮のため拝借しているため、その拝借金分を引いた残り金一六六両と銀二匁二分を取り金としている。
この無尽は、講元である松平家とすれば、拝借金の元利が確実に取れ有利な利殖であったが、無尽は相互扶助であるとしている農民にとっては得策なことではなかった。この「二十七会講」によって農民の負担は更に増したが、年貢と諸役がまったく免除されない古田(こでん)の村である阿木本村では、他の新田村より大きな負担を背負ったことになった。このため文政一一年(一八二八)一一月になっても、第一回の掛金が集まらず印取りができなかった。阿木村本村では一回の掛金が八〇両であるから、一年に金一六〇両の負担となり、単純に二七倍しても多額の出費となることは確かである。
文政九年(一八二六)七月、四代領主松平乘保が死去。八月に乘美が家督を相続し丹羽瀬清左衛門が登用された。清左衛門は翌一〇年(一八二七)六月に
「近来は百姓共耕作不情(ママ)ニ成行き 一躰之心得方違い 先祖より御下ニ親子安穏致候事 ひとへニ上之恩沢ニて冥加之事ニ候……」
との前文より始まる「御法度并簡略申渡」を、村々の役人に申渡し、一一月には元禄一六年(一七〇三)に布した「条々」を再公布した。清左衛門は「領民が領主の恩に報いること それに綱紀を正し よく働き節倹に勤めるべき」と、三〇項目に及ぶ「条々」と「御法度并簡略申渡」を公布することによって財政再建に対する姿勢を示した。