槙平の開発

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槙平は標高約一一〇〇mの高所にあり、現在は中津川営林署の槙平作業所の建物が設置されている。この槙平を中心に一〇か年の期間に一〇町歩[約一〇ha]の新田を造成しようと、文政元年(一八一八)阿木村小皿田の与惣右衛門、同村福岡新田の庄蔵が発起人となり開発計画がたてられた。
 当時、この地方の稲作は、尾張領湯舟沢村霧ヶ原新田や阿木村広岡などの約七五〇mを標高の限界とし、これ以上の高地の稲作は不可能であった。
 槙平の開発は 高地で低温被害が予想できることと、阿木溪谷沿い槙平と集落の中間に鎮座する風神への信仰は、「風神より川上(かわかみ)へ婦人入込候得バ風雨繁多哉……」と、神域より上流への婦人の登山を禁制とし、また、冬から春にかけ牛馬の飼料となる笹の採集についても、「村方差障りにも相成申べく……」と、開田について全村の支持を受けたわけではなかった。庄屋兼三郎[後に専三郎と改名]が書き残した「槙平一件覚帳」には、七通の願書覚が収録されているが、いずれの願書にも庄屋二名、組頭四名、百姓代二名、それに開発世話人の名前が連署され、この開発に阿木村が深く関係していたことがわかる。
 開田計画は一か年に金一〇両、一〇か年一〇〇両の運上金をもって、松平家所有林の払下げを受け、その伐木の代金を運用資金とする。一〇か年間に開田面積を一〇町歩とし、願書は「……村繁昌之義ニ御座候」と 結んでいるが、この計画案は岩村松平家の郡奉行小林太郎兵衛、力丸貫一郎、代官石橋三郎兵衛らの開発場所見分によって却下され、次の内容の計画が認可されている。
 ① 開発場所、開田したとき日陰となる場所[一〇間から二〇間巾]の木の伐木と払下げ。
 ② 新道(馬道)の新設と そのため職人雇入れなどに必要な費用を拝借する。拝借金五〇両は無利息長期間返済を願う。
 ③ 拝借金と払下げの木品を売却した金によって五年間に田畑五町[約五ha]の開墾をする。
 ④ 六年目に検地を受け、もし五年間に開発できない場合は金五〇両の拝借金に一割の利息を加え返上する。

Ⅳ-75 槙平開田の仕様書

 また、五〇両の拝借金の下付を願うための「槙平新田諸入用覚」があり仕様書はⅣ-75表の通り、金一〇一両銀五匁を計上しているが、見積り通り開田工事を行ったとは考え難い。この表に見られる信州者とは、信濃国下伊奈郡高遠[現長野県]の石工のことであり、奥州者とは生国を特定することはできないが、おそらく開田などの技術に卓抜した集団と思われ、両者とも国元を離れ出稼ぎをしていたことが分かる。この覚帳に書かれた以外は、奥州、信州者の名前は見られず金銭出入帳など具体的な事例を記録したものがないので、両者が実際に開発に参加したかは不明である。なお、覚帳には高遠石工の賃銭は書かれていない。文政元年(一八一八)一一月六日の日付のある、「新田開発御請負證文」には、「……新田開発仕度段 願いを奉り候處 願の如く仰付けられ……」と、岩村松平家より許可がおり次の内容が書かれている。
 ① 許可された場所以外の木は、決して伐り取らない。
 ② 拝借金のほか、木品を伐り売却した金によって開発の費用を賄(まかな)う。
 ③ 午年[文政五年一八二二]までに五町歩[約五ha]を開発し未年[文政六年一八二三]に検地を受ける。
 ④ 検地後の三か年は年貢免除、四年目から年貢を上納する。
「……右ニ付金五〇両無利息年延拝借願り奉り候……」と、無利息の拝借金を借りるが、開発できない場合は前出の願書の返済方法と同じである。この願書には入植者の名前が列記されており、与惣右衛門の世話による者と庄蔵の世話による者に分かれている。
 与惣右衛門----久保原村 周助、木地師 文左衛門、五郎右衛門、宇右衛門。
 庄蔵----------菊右衛門、利右衛門、久左衛門、弥左衛門、藤兵衛、源兵衛。
 それに、文政四年(一八二一)三月には、周助が離脱しそのあとへ広岡新田の吉左衛門が入り、同五年(一八二二)六月に郡上郡より長兵衛、友次が槙平の開発に入った。入植者達は「場所に依りて代相定の為起申候」と、一歩[六尺四方]の土地を開墾し易い順に銀三分、二分、一分五厘の三段階に分けて開田をしていったのである。

Ⅳ-76 槙平とその周辺地図

 文政二年(一八一九)入植者の内、疱瘡に羅病する者がおり、「必至難渋 これにより御上へ金子百両願い奉り候處仰付られ銘々へ拝借奉り候」と、入植者それぞれが、借財をすることになるが、年限一か年、利息一割の条件では返済が不可能なため、拝借金返済の条件については断っている。入植した人たちは、自然的な条件の外に経済的にも恵まれず 文政二年(一八一九)に支払う上納金、すなわち前年冬に上納した金二両の残金[金額不明]を村方より請求され、来年三月まで延ばしてくれるよう申入れるが、利息分しか返済することができなかった。このように借入金の返済は困難をきわめ、この年の暮にも入植者は利息分を請求されるが、「来年三月迄御取替之上納入下されるべく様 阿木村役人相頼ニ付き…」と、上納金延期を頼んでいる。おそらくこの借金は文政二年(一八一九)に拝借した金百両と思われ、阿木村役人らも利息金一〇両が都合がつかず大雪の降る大晦日に、金策と代官への断りをかね庄屋兼三郎、組頭次左衛門が岩村へ出かけ木村孫五八、宮田四郎兵衛に金の融通を頼むが、夜九ツ[午前〇時]になっても金が集まらず上納する金を返済することができなかった。そのため兼三郎と次左衛門は再三代官のもとへ断りに行くが、木村孫五八の世話により年が明けた早朝に ようやく上納金を納めることができた。
 文政四年(一八二一)三月、阿木村役人は木村孫五八の取替分金一〇〇両を
 「……御上之拝借金拝借奉り……上納仕(つかまつ)らずなどとは 不埓至極の申条……当地ニハ置がたく 家財残らず相渡し立退き申べく候……」
 とか、「……七月迠差置き申べく候間 それ迄に行所[移住先]見合せ立退き申べく候」
 と、入山者に強硬な姿勢で返済を迫っているが、入山者には借りた金を支払う稼ぎや貯えもなく、食糧さえ乏しかったので、その日その日の喰分として轆轤(ろくろ)一丁に月五匁ずつの運上金を納めて木地物をつくり、製品は村が受取り売却することにした。この様な生活の中では、木村孫五八から借りた多額の金を返済することができず、庄屋兼三郎、清助が金百両の利息金一〇両を立替えて支払うが、村方とても返済の手段がなかったのである。この金の他に、開発の当初に拝借した金五〇両の返済もままならず、庄屋清助が奔走し来午[文政五年一八二二]の暮より無利息、年延べにしている。
 文政五年(一八二二)一二月には、槙平内の材木を金二二両一分二朱銀二匁五分六厘で入札者に売却しているが、これとて余裕ある資金とはならず右から左へと流れてしまったに違いない。木地師文左衛門と五郎右衛門は、年賦金一両と轆轤運上金三両[一台に付き金一両]を、一〇年間納付することを条件にし槙平に引つづき居住することを村方に願っている。この三両の金は岩村に在住する元締の庄助から村方が受取ることになっているが、おそらく庄助は木地物を取扱っていたと考えられ、文政六年(一八二三)には入山者救済のためと、申年[文政七年一八二四]から戌年[文政九年一八二六]までの三年間、無運上の木地木払下げを願い出ている。このことは生活資金を得ながら開発を進めたことを意味しており、開発資金の枯渇を示している。
 文政五年(一八二二)が開発の最終年となるが、前年一〇月の村役人の中改めでは、一町四反七畝六歩が開墾されただけであった。文政六年(一八二三)七月にも村役人が竿入れを行うが、測量した面積は記録されていない。この年は、岩村領による検地を受ける年であった。そのためか、九月二五日には与惣右衛門が一夜泊りで見廻りを行い、一〇月二日には田畑の畦畔直しと開発人の取締りのため、阿木村野内の弥市を槙平へ送りこんでいる。
 文政七年(一八二四)九月八日より一〇日までの三日間、松平家の大目付、郡奉行三名、代官らにより検地を受け、「滞りなく相済み申候」と、結んであるが、ここでも検地が一年おくれになったことや検地した田畑の面積のことは一切記録されていない。この検地後の一一月、新田開発に伴い肥料となる草を得るため、草山払下げの交渉に庄屋兼三郎が当るが、一二月二五日より岩村に詰め切り嘆願を続け、ようやく、大晦日に草山払下げの裁可を受けている。この引渡しは翌八年(一八二五)五月二五日から二九日までの四日間、代官橋本祐三郎 山奉行安藤哲助らの見分立会によって行われている。検地後三年の文政一〇年(一八二七)、阿木村は定めの通り注進状を提出した。
 この注進状が提出される四か月前の四月二三日に、家老丹羽瀬清左衛門、郡奉行中村三之進、代官平野孫右衛門ら一行が槙平新田を視察をしている。財政たてなおしを図る清左衛門はこの開発をどう受けとめていたのだろうか。
   御注進覚
一下田壱反六畝弐拾八歩
  高壱石六斗九升三合三勺四才
一下畑四町九反壱畝八歩
  高弐拾九石四斗七升六合
 右之通居村御山之内字槙平新田
 切起去ル申年御注進申上御検
 地請耕作仕昨戌年迄ニ先規
 御定法之通三ヶ年御取箇御用
 捨被成下候間當秋御見分之上
 御年貢被仰付可被下候様奉願
 上候以上
(文政十年)
  亥
   八月日
        阿木村庄屋
             兼三郎
          同断
             清助
         同村組頭
             五右衛門
          同断
             又右衛門
          同断
             次郎右衛門
          同断
             曽吉
          同断
             吉兵衛
        同村百姓代
             市右衛門
          同断
             角左衛門
 橋本祐三郎様

 阿木村の役人が処罰を受けた槙平の開発は、松平家に対して上記注進状の文政一〇年までは、手続上の問題は見当らない。史料により問題点を知る手がかりがなく推測することしかできないが、検地を一年先に送った事実は、元金五〇両に一割の利息を加え返済すれば解決することである。この拝借金は文政五年(一八二二)暮より無利息、年延べとなっているが嘆願した上のことであり、もしこれが問題だとしても重大視することはできない。
 処罰の対象として考えられるのは、「注進状覚」による田畑の合計面積五町歩余が、実際に開発されたかどうかの疑問である。このことは、文政四年(一八二一)以降、開発された面積の記述が一例もなく、三日にわたった検地のときですら検地面積が記録されていない。もし、このことが事実ならば、充分処罰の対象となることである。また、直接開墾した人たちの消息が文政六年(一八二三)以後は分かっていないが、この人たちは入植者として槙平の開墾をしたのか、労務だけを提出したかは「……六尺四方壱歩代銀三分と相究(き)め……掘能ク相成候ニ随ヒ 或ハ弐分の場所もあり 或ハ壱分五厘ノ場所もあり 場所ニ依りて代相定め起なし申候……」
 と、だけでは判断はしがたい。また、たびたび上納金などの問題で、村方より槙平から下山するよう言われた、弱い立場であった開発人たちは、文政の阿木騒動以後の消息は分からず、その存在を消してしまった。久保原村周助は開発の途中に山を下り、阿木村福岡新田の庄蔵は世話人の重責に耐えかねて欠落ちし、文政四年(一八二一)庄屋助十が退役している。この庄屋交代も槙平新田の問題がからんでいるのではないかと思われる。