「……去子一二月(文政一一年)村中無尽壱ヶ年のべにて 当年の無尽は一回休みに致候様にと ととう(徒党)を致し 此事御上へあい聞へ此の頭取を吟味成られ候て御上へ召出され……」
と、阿木村農民が若王子神社の森にて集会を開き、二十七講の掛金上納を一か年休むことを決めたが、この取決めは富裕な農民らの意向により「無尽諸賄半定(はんじょう)にあいなり候」と、金八〇両の半金の金四〇両を上納することになった。しかし、岩村松平家はこの集会を「ととう致し」と、一揆であると断定し、村役人を始め阿木村の有力農民を召換したのである。
文政一二年(一八二九)二月五日の夜から六日朝にかけ 代官手代と約一〇人の同心が阿木村に踏みこみ、村役人三人と一〇人の農民を逮捕した。青野鷹見家文書でこの様子を見ると
「……(文政一二年)丑二月五日夜御手代様並御同心様拾人ばかり 阿木村へ御出に成らせられ 庄屋清助 同兼三郎 組頭又右衛門曽吉 次郎兵衛 吉兵衛 百姓代市右衛門 角左衛門 宮田の四郎兵衛 野田の常右衛門 さいの神の小四郎 右拾人繩付にて岩村へ御引成らせられ 御吟味の上入牢仰付られ候 右小四郎殿は宿預け相成り候」
と、捕縛され二月一日の呼び出しとは違い農民側にとって厳しい事態となった。この村役人の逮捕を皮切りに、
二月七日 見沢の次兵衛と金蔵、寺領の甚吉が、八日には見沢の助十、野田の忠右衛門、寺領の七蔵と七左衛門、田中源蔵、さいの神の林吉、山野田の吉兵衛の一〇人が手入れを受けるが、七左衛門と林吉は難を逃がれ七人の農民が繩付きで岩村へ連行された。九日「……見沢森金 御上へ不足致し、種々わけ合いこれあり」と、野内の周次郎[青野文書は善左衛門]が会所にて繩付きで詮議の上、入牢となっている。
続いて一〇日には、見沢の助右衛門、野田の利蔵、田中の半兵衛が繩付きで岩村へ引かれ詮議の上、宿(やど)あづかりとなり、六日に宿預けとなっていた小四郎、八日に連行された吉兵衛は、この日、口書を取られ帰村となるが禁足を命じられている。逮捕された者は、二月晦日まで取調べを受け口書を取られているが、三月二日にはこれらの者の中から、七左衛門、利蔵、半兵衛、助右衛門の四名は処罰として手錠をかけられ村預けとなった。
このような村役人の全員逮捕、投獄は村政に約一か月の空白をもたらしたが、三月二日から枝村の役人が村役人代として、村方の諸用や年貢米の不納分の取立てをやった。村役人代の名前は次の通りである。
福岡新田庄屋 専蔵、 福岡新田組頭 勘七、 福岡新田百姓代 藤四郎、両伝寺組頭 九兵衛、 青野村組頭 弥之右衛門、 さいの神年寄役 弥左衛門、 八屋砥年寄役 産兵衛、 野田年寄役 弥兵衛。
「……此四人ニ而村用并不納米等取立て申候」と、書かれている様に年貢の滞納が多かった。これは前年の気候が
「正二三月霜ふり多し 四月八分てり 五月雨ふり……七月朔日大水廿余年以前より之洪水 川上村川筋 中津川迠之内夥敷損シ候」「夏中雨降り世の中大悪なり」
と、夏の多雨による不作の結果であったと考えられる(市史中巻別編年表)。
四月二四日、年貢不納を理由に農民八二人が代官所へ召換された。この八二人は口書を取られ、すぐに帰村しているが、三日後の四月二七日、新たな農民七〇人と共に再び代官所へ呼び出され、取調べを受けて次の様な処分を受けた。
・繩手錠の者 一〇一人。 ・押込めの者 五一人。
と、なっている。この処分者の内、押込めの五一人と繩手錠と六四人が五月一日に赦免されるが、残る三六人は五月三日に牢舎入りとなり、五月一五日に解き放されている。阿木村の年貢を負担する高持百姓は、当時二〇〇戸前後であるから年貢未納者は約七五%の高率であった。
岩村松平家は徒党の指導者らの逮捕や取調べと平行して、代官橋本祐三郎を召し捕り、他家へ預け、その後に取調べを行った。その理由として広岡鷹見家文書は
「……御上の金子大きニ遣い 種々(いろいろ)様子これあり 上牢仰付られ 後下牢仰付られ……」
と、ある。また、「岩村藩士暦略譜」には
「文政十二丑二月五日不審の筋これ有り 同列江成られ御預り後 御締場江遣わされ御吟味これ有り之処 不正之次第これ有り候ニ付き 格禄並名字帯刀御取上げ入牢之上 死罪仰付られ」
と、ある。死罪となった直接の原因である「金子大きニ遣い」や「不正之次第」のくわしい事実は分かっていないが、この祐三郎に連座して岩村の商人、大徳屋嘉兵衛、車屋重三郎、三河屋多郎右衛門が「祐三郎殿へ懸り合いにて」と、処罰されている。逮捕後の祐三郎は武士であるので最初は他家預け締場[取調場]で罪状がはっきりした段階から、家禄や名字帯刀など武士としての権利と資格を剝奪され、それに武士・僧侶・医師らを収容する上牢から農民など一般の罪人を収容する下牢に移され、四月三日に斬首の刑に処せられている。また、祐三郎と関係があったとして、中村三之進、太田才兵衛、梅村儀一郎の岩村家士三人が処分を受けている。
二十七会講の談合に端を発し、見沢森金の不正発覚や年貢不納者の繩手錠や萬嶽寺への押込(おしこめ)までに及んだ阿木村の騒動は「二月六日より五月三日迠に残らず相済申候」と、Ⅳ-77表のような処分を受け一応は解決した。この処分では、代官橋本祐三郎の打首をはじめ、連座した岩村商人の三河屋多郎右衛門は、恵那、土岐両郡内の城付領、同じく美濃国内の山県、武儀、大野、安八の四郡内、それに駿河国有斗、志太 益津の三郡内飛地の三御領内所払い、大徳屋嘉兵衛、車屋重三郎は阿木村へ所替えとなっている。村役人と農民の処分は、庄屋清助、組頭又右衛門、見沢森金の周次郎が三御領所払い。そのほか村替えや過料を取られた者もいるが、不問になった者もいた。
Ⅳ-77 文政の阿木騒動における農民の処分者