槙平関係者の処分

882 ~ 888 / 922ページ
この五月三日の処分の段階までは、槙平新田開発については表面上、何の問題もないように見えた。野田の忠右衛門は二月一日の召換では、口書の提出だけにとどまり何の処分も受けなかったが一一月に入牢となり、最終的には槙平新田の開発に従事させられている。また、彦兵衛は槙平の開発の始まった文政元年(一八一八)には組頭をやっており、文政六年(一八二三)から九年(一八二六)までは庄屋を勤め一二年(一八二九)の阿木騒動のときは、すでに退役しこれらの問題にはかかわりがなかったが、槙平開発の責任をとらされ浅野村へと村替えとなっている。この二人の処分例でも分かる様に、文政元年(一八一八)から一〇年(一八二七)までの間、村役人を勤めた者と世話人与惣右衛門などの関係者はすべて処分の対象となったが、例外として文政一〇年(一八二七)より組頭となった吉兵衛は、槙平の件では処分されていない。
 この槙平問題の処分は、すでに村替えや過料銭五〇貫文になった者が、一一月に再入牢し槙平新田の強制労働のために山に上ったり、久須見村へ五人が村替えとなっている。この処分では、三御領分より追放された兼三郎と又右衛門は再処分の中には含まれず、このことから、一一月以後の処分はすでに村替えとなっていた者を、岩村へ呼び出し再喚問したと思われ、二十七会講の徒党の頭取として刑を執行された者や取調べを受けた者の他に、新たに六人が処分されたのである(Ⅳ-78表参照)。

Ⅳ-78 槙平開発関係の処分者

 このように、二十七会講の徒党首謀者としての処分と、槙平開発が不首尾に終わった責任を問われ二重に処罰を受けた者が、この騒動に居たわけである。この者たちの処罰の軽重は、領民としての権利を奪われ、おそらく身分を証明する送籍状も持たず領内を追われた清助、又右衛門と比べれば、岩村城付[東濃地方の領地]領内の移動であり、領民であることに変わりない村替えは処分としては随分軽く、また、劣悪な条件の中で過酷な労働を強いる槙平開発に送られた者たちは、同じ村内とは言え村替えより重い刑罰であった。村替えの処分により送られた村の現在の地名は次の通りである。
 ・中野村   恵那市長島町中野
 ・久須見村  恵那市長島町久須見
 ・藤村    恵郡市武並町藤
 ・浅野村   土岐市肥田町浅野
 ・中肥田村  土岐市肥田町肥田
 ・山田村   瑞浪市山田町
 この阿木騒動の特異な点は、二度にわたる処分者を出したことのほか、一村だけが一揆と見なされ、多数の処分者を出したことである。この様な例は、この地方にはなく、全国的にも稀れなことである。そこで、大量処分の原因となった問題をいま一度整理してみよう。
 (1) 二十七会講
 徒党の首謀者として二八人が召換され、二人の三御領内からの追放を始め、村替え九人、過料三人、手錠のうえ村預け二人、口書を取られた者四人と、八人の村役人全員と年寄と呼ばれる村内の有力者が処分されたが、これは、財政再建の一方法として無尽を始めた松平家にとっては、村民の合意を以って無尽掛金の上納を拒否したり、半金だけを納めることが他村へ波及するのを恐れ、領民へ松平家の威信を示すため大量処分という強硬な手段に出たものと考えられる。
 若王子森の村民の総意は、おそらく嘆願書の形をもって岩村松平家へ届けられたであろうが、領主に対しての願いごとは、
 「……すべて願筋は村役人を以って 御料は代官 私領は地頭へ訴え 吟味を請けるべく事……」
 と、安永六年(一七七七)に布された徒党禁止の触書の文言を知らないはずはなく、だれもが、徒党することが重大な罪であることは周知していたが、このような相談ごとは集団の人数に多少の差はあろうが、当然のことのように行われていたにちがいなく、二十七会講の集会に対する松平家の態度は予期せぬことであったと思われる。
 (2) 見沢森金
 岩村松平家は、領内各村の神社境内の木を伐採売却し財政赤字の補塡をはかった。阿木村見沢八幡社の社木につき「見沢森金 御上へ不足致し 種々わけ合いこれあり」との理由で、周次郎が農民側の処分としてはいちばん重い「三御領分所払い」と、いう処罰を受けるが、どう不足したのか、わけ合いとは何なのか、売却方法と共に分からないので真相に迫ることができない。この社木伐りが、村役人に申渡されたのは、文政六年(一八二三)のことであるから、六か年の時間が経過しており、もし、周次郎に不正があれば、その時点で村民が糾弾するか、当局が処分するはずである。なぜこの時期に召換の上処分されたか、それに他の関係者があったかを含めて不明な点が多い問題である。
 (3) 年貢米の不納
 不納者一五二人が繩手錠・押込めと万嶽寺へ留置されたが、この内の入牢した三六人が徒党の首謀者と見なされ、年貢米不納についても談合があったとしている。年貢米不納の場合の処分として「入牢」「預り」などの処罰はめずらしいことではないが、この騒動の一五二人という人数は、この地方では他に例を見ない。いつもの年は一一月に上納米の収納が行われ戸締めをするが、二十七会講の手入れが徹底して行われたためか二月の上納者がおり、この者たちと不納者が処分されている。郷蔵の中は
 「阿木村 去子一二月(文政一一年)御年貢不納ニ付 丑春二月(文政一二年) 御倉に米少々これ有べく 御年貢大きに不足致候」
 の様な状態であった。
 第三節「天保の飢饉」でも述べたが、年貢不納米は拝借米として処理していた。文政六年(一八二三)にこの制度は廃止になるが、このことは、阿木村農民は周知のことであり、年貢は納めるのが当然のことであるから、年貢米不納の談合が考えられ、また、郡方役人が戸締めに立会うのだから、役人の怠慢とも言える。
 (4) 槙平の開発
 広岡鷹見家文書は「槙平新田山の事に付き、御上をいつわり大枚の金子(きんす)を失い 其の科(とが)により召出され獄屋申付られ」
と、兼三郎ら八名が槙平へ送られた原因を書いている。「槙平一件覚帳」では、開発予定年数が一か年おくれたが、検地後の三年目、文政一〇年(一八二七)に御年貢注進状を提出しており、開発のおくれを除けば不備な点は見あたらない。槙平へ入山した者が、木地製品をつくり生活費を稼ぎながら開墾したことを考えると、予定の五町歩の田畑は造成されず帳面上の面積とも思われ、一か年の開発のおくれは、
 「萬ケ一右五ヶ年之内ニ前文之反畝数程(五町歩) 得開発不仕候ハバ 其節拝借金ニ壱割之利を加ヘ元利共急度返上納可仕候」
との拝借金五〇両の返済も確かでなく、願書通りにはいずれの場合も開発が進まず「御上を偽り大枚の金子を失い」にあてはまり処分の対象になることである。この槙平一件は、草山のことを含め、高冷地の開発を計画する動機など、現在ある史料だけでは解明することができなかった。
 以上、簡略にまとめられた村方の文書をもとに阿木騒動をまとめたが、支配者側の史料が乏しく、その全容を知ることができなかった。
 二十七会講の徒党の問題は、阿木村としての殿様無尽をどう受け入れる態度を示したに過ぎず、年貢不納者の処分は、二月の上納者の処分と五月という農作業の忙しい時期に農民を拘留した点を注目しなければならないし、槙平の開発にいたっては、果して予定通り開発されていたかもあいまいであるが、新田開発に対する手続き、検地、三年後の年貢注進状と岩村松平家の了解を得て行われたことであり、多分の原因が開発の遅れであるなら、荷酷な処罰だったといえよう。徒党の問題は強訴などで農民が積極的に行動を起こしたのでなく、一方的な支配者側の逮捕・取調べとなっている。年貢不納の件でも故意の不納と受取れないこともないが、これも支配者側から見れば、村役人・郡方役人の職務怠慢である。このことは農民に対する統制能力の低さを示していると言える。
 この騒動が農民側に不利であった点は、岩村松平家が破産状態にあった財政を整理し再建の途上にあったことと、文政九年(一八二六)から家老となった丹羽瀬清左衛門が、殖産政策や松平乘紀が岩村へ転封した元禄一五年(一七〇一)の治政に復古しようと、当時の「領民法度」を再発布したり、新たに「御法度并簡略申渡」を触れ出し、治政改革に乗り出す気運の中で問題を引起したことである。文政の阿木騒動はいずれの問題も、これから推進しようとしている治政に対して逆行することであり、新田・枝村を含め村高二千石余[内検高]という岩村領きっての大きな村である阿木村に追随する村がでるのを恐れ、また、岩村松平家の威信を示すための政策的な農民の検束と考えられる。それに、農民の力の増大と支配者側の農民に対する力の衰えでもあると言える。
 この騒動をはずみにして、天保元年(一八三〇)「慶安之御触書」や「国産に関する存意書」を再発行し、また、発表し丹羽瀬清左衛門は本格的に改革に取り組むのである。