改革の経過

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この章第三節「災害と凶作」では、天保七年(一八三六)の凶作による飢扶持米の支給と拝借米金をめぐり、家老丹羽瀬清左衛門と在地の郡方役人との扶持米取扱い不一致が、農民の蹶起を促し、天保八年(一八三七)六月に、清左衛門が失脚したことを述べた。この騒動の直接の引き金となったのは、凶作という不測の事態に対する岩村松平家側の対応の不明確なところにあったが、底流には清左衛門が進めた改革の様々な負担に対する不満があった。
 天保八年(一八三七)五月に、岩村城付領五二か村が提出した二一か条の嘆願「不顧恐無余儀次第御願之事」の前書に「文政七丁亥年御改革御来村方難渋」と、農民らは松平家が財政再建に向かった文政七年(一八二四)を改革の始めとしている。
 文政九年(一八二六)領主の交代により、清左衛門が重用されてからの取組みは、これまでにも記述してきたが、これを整理し年代を追ってまとめると次の通りである。
 ① 文政 七年(一八二四) 藩財政が破綻し財政再建にのり出す。
 ② 文政一〇年(一八二七) 条々[村方法度]の再公布と御法度并簡略申渡を布す。
 ③ 文政一一年(一八二八) 二十七会講始まる。
 ④ 文政一二年(一八二九) 阿木騒動。阿木村農民検束され処分を受ける。
 ⑤ 天保 元年(一八三〇) 慶安の御触書・六諭衍(えん)義大意・国産の儀に付心得方申談存意書を発行する。
 文政一二年(一八二九)の阿木騒動後、清左衛門は改革の根本と抱負を「国産の儀に付 心得方存意書」にまとめた。二十数か条から成るこの存意書は、国産の第一を、
 「一歩(ぶ)の場所にても 新田開発 荒地起(おこし)かえり候様に至し候儀専要に候」
 と、新奇の作物を好むことなく、稲作中心の農業を基本とし、
 「士農工商四つの民 銘々(めいめい)の職分を励(はげみ)候は決して人の為にてはこれ無く 皆銘々の益にて 皆その身に益あることは 捨ておき 朝寝昼休みに多くのひまを費(ついや)し 一日に半時の怠(おこた)りは一年に一箇月の損ということさえ心附申さずは余りに歎かわしき事に候」
 と、その職分を全力で勤めることとしている。また、食物となる草根木皮や薬種、それに衣類などは国産品を用い、余剰の品物は売出するようにすすめ、領内にて必需品を購い使用することを奨励している。この他に、農村では荒地の開発や空地の植林を励め、絹、木綿織物の織り方や売却の方法までも示している(恵那郡史)。