丹羽瀬騒動の発端

890 ~ 892 / 922ページ
年貢米を期日[蔵締め日]までに収納できない者がいる場合、その不納分は村方の拝借米として処理されていたが、「与兵衛・年代重宝記」の「村方拝借残らず御領分中の村へ下され候 御年貢引あて切手通用せず」と、文政六年(一八二三)の松平家財政整理の段階で、この慣例はすでに破棄されていた。しかし、大凶作の天保七年(一八三六)、岩村松平家郡方役所は公然とこの措置をとった。
 これに対して清左衛門は天保八年(一八三七)四月二一日江戸より帰国すると、財政再建の途上にあることと、それに、天保五年(一八三四)の江戸領主邸の類焼を理由に
 「御類焼後 御内證(財政)御とどまりの節をも弁(わきま)えず 金納村々もこれなき處に過分の拝借願候儀 心得違いの事ニ候」
と、農民の身勝手な願いとしている。また、これを認めた郡奉行、代官らを「思慮薄きふつつかなとりはからい」と非難している(広岡・天保七申年凶作日記)。
 四月晦日 広岡新田は、この拝借米の返上の時日を報告するように返答を求められ、庄屋、組頭が五月一日に代官所へ出頭し、三年賦返済にしてほしい旨嘆願するが、吉田紋次郎は「(郡方役人の)仕落ちに相成候」と、願いをことわるがこの件は「差当り御沙汰御座なく候」と、不問となっている。このほか、領内各村は拝借米の小前への貸付を調査するため、五月一三日までに「取帳」の提出を命じられている。村によっては、記帳が複雑であるから新帳に書きかえるとか、「本取帳」と諸帳面との引合せに日数が掛り混乱をきたした。
 天保七年(一八三六)の収納時の拝借米金は、米四千俵余、金二千六百五十両となり、関係役人は「勤方よろしからず」と、厳重な注意を受け、また関係者は進退の伺いを出している。この件についての処分は
 石寺十左衛門   (中老)  謹慎
 松岡 弥六郎
 梅村 儀一郎   出仕止め
 吉田 紋次郎
 加藤 雄助         閉門
と、なっており、梅村儀一郎は松岡弥六郎と共に、
「裕福の人ニて 金子等所々へ貸付おり候処 武士たる者の致間敷由に付き……」
と、借用証書を取り上げられている。梅村儀一郎は、文政一二年(一八二九)にも、処断された橋本祐三郎との関係を問われている。
 五月三日 広岡新田の村役人らは、杉、檜苗の生育を下見分している。これは、清左衛門の改革の一環として山水方より配布された苗木で、山水方役人の生育状況の見分前に村方が事前に検査したものである。
 九日には各村が「取帳」を提出するよう命ぜられるが、
 「迷惑の儀もこれあり」「陰のこと共 相知れ候ては」と、領内五二か村の庄屋は「先規より御目ニ掛候儀これなく候」
 と、一応は断わるが、やむ得ず広岡新田は五月一四日に「取帳」を提出している。この様な清左衛門の強硬な姿勢に対して
 「御家老丹羽瀬様なにごとによらず 御気分の気ままにて 御思付き言出しあることは 田植の差別なく下の難儀思召されず候」
 「此上 いかようの新法仰せ出され またはいか様のお咎メこれ有り候も はかりがたく これまで覚えず心配致ス村も多くこれ有り」
と、危機感をいだき、これまでの政策や飢扶持米の支給方法もからめ、旧来からある村々の生活慣例を守るために、村役人主導の一揆へと発展していった。