五月一七日 領内五二か村の総役人は岩村町宿に集結し、
「村役人一同申合せ置候上は 決して変心致間敷事」
「万一入牢など仰付られ候節ハ 村々早速罷出御伺い申し もし 御聞届これなき時は打破り救い申べくこと」
と、六か条の取決めをし、その上で二一か条の願書「不顧恐無余儀次第御願之事」を、五二か村の村役人が総連判し翌一八日に代官に差出した。なお、この願書の後文には、
「近年御産物等仰せ出され候に付き 御領分村々入用相かさみ困窮いよいよ増し候間 清左衛門様御役御勤め遊ばされ候ては 下方一統気服仕らず」「何卒 清左衛門様一刻も早く御押込み仰付け……」
と、清左衛門を罷免することを要求し、
「万一右之段 相叶わぬ候節は村々御百姓共一同相揃い 御同人様申請けに岩村役所へ罷出申候」
と、願書を提出した五二か村の村役人の決意と気構えを示している。また、後文では改革により村々の入用金が増加したことを訴えている。
提出された願書は山水奉行の手を経て、家老大野五左衛門に渡り、
「村々騒ぎ立て候ては 上(領主)の御外聞に相かかわり御為に相成ず」
との進言に、五左衛門は清左衛門の隠居(退任)を勤めることを約し、すでに塔か根[岩村領刑場]に集結していた農民を解散させている。
五月二八日 岩村と周辺の村役人が白州へ呼び出され、騒ぎの原因となった拝借米金を返納することや施粥の分配方法は、吉田紋次郎[代官~郡奉行]一人の取はからいであり、清左衛門の関知しないことであると聞かされ、その席で紋次郎は村役人に手をついて謝罪している。また、これらの趣旨を書いた「村々役人共へ」が示され、これに対し村役人は清左衛門が願書の内容を理解したものとして、
「向後 相慎ミ騒敷之儀 一切為仕申間敷候」
と、請書を提出している。以後、農民に対し数通の申渡書などが家老河合宗左衛門、黒岩助左衛門、それに郡奉行などから出されるが、二一か条の願書に対しての抜本的な解決とはならず、農民の不満は再び高まった。
農民らの動きとは別に、松平家中では家老五左衛門を含め、農民と絶えず接触している在地の郡方の役人を処分することで紛糾し、二一か条の願書が江戸(領主)へ届かなくなる可能性も出てきた。これは、農民の願いが拒否されることであり、この様な家中の動きに対して、領内各地で農民が集結し、再び不穏な動きを始めた。このため、隣接する旗本領の陣屋や尾張、苗木の両家は鎮圧の準備に動いたとも言われている。
この農民の動きを見て、岩村家中は清左衛門の罷免を決し、七日の夕方、宗左衛門は飯沼村庄屋弥兵衛らを私宅へ呼び寄せ、清左衛門を除く二人の家老と役人ら同席の上で、清左衛門の「退役願」と、三名の家老の「隠居願」を示し、村役人に村々の騒ぎを九日までに鎮め、岩村表へ注進することを要請した。この要請により各地に集結していた農民は解散し、打毀しなどの直接行動や城下への集結は阻まれたわけである。
拝借米金の返納問題が「取帳」の提出と言う強硬な手段となり、このことが発端となって改革の是非を問うことになった天保の岩村騒動は、六月一四日の清左衛門への「隠居」申渡しにより終結し、財政再建を始めとする改革は挫折を見るが、清左衛門の進める改革にとって、予期せぬこととはいえ天保の両年[四年 七年]の大凶作と天保五年(一八三四)の江戸領主邸の類焼が、大きな障害となったのは確かである。
しかし、国産所の金二万四千両余の借財は、過剰投資とも放漫な経営からできたとも受け取れ、文政七年(一八二四)に農民との貸借を清算したはずなのに、天保七年(一八三六)には、拝借米金は、前述の様に莫大なものとなり、理想を完うするためには、現実との差があまりにも大きく、在地の役人との考えの違いも大きな弊害となった。
この騒動関係者の処分は、清左衛門が家禄減石の上に蟄居[閉門の上一室にて謹慎]、石寺十左衛門の役儀取上げと少数の者の処分に止(とど)まった。農民の処分は、清左衛門らに処分の申渡しをした一日後の七月一一日に、領内各村の村役人が呼び出され押込めの処分となったが、三日後の一四日には放免になり、
「外に御咎め等一切これなく 事故なく 相済み申候 目出たし 目出たし」
と、農民側の処分は形式的に終わっている(恵那市史史料)。