と、書かれた願書「不顧恐無余儀次第御願之事」への回答は「天保八年丁酉霜月箇条書附一札」として、一〇月になりようやく農民側に示された。この願書の一六条から一九条までは、織物と焼物[陶磁器]に関係したもので、生産した品物を国産所が買入れる方法とか、日限までに納品を強要されることについて書かれており、回答は
「御用の品は格別、みだりに申付け候儀相止め申すべく候……」
と、全くの中止を見たわけでなく、納品についての条件を緩和するとしている。国産品以外の要望事項の主なものを取り上げると次の様である。
一 二十七会講の掛金は、借入金や質物などで支払い必至難渋である。
二 人別改めを月々に行っているが、手間と費用が掛り過ぎる。
三 大工の江戸在番を申付けられたが迷惑である。
四 些細(ささい)なことにも細かな穿鑿(せんさく)がなされ注進をしなければならず、そのため雑費が多くかかり、また、提出文書の文言の悪いところがあっても用捨[採用する]してほしい。
五 他行[居住地をはなれ他所へ行くこと]は七日以内の場所は届けを猶予してほしい。届けに役所へ出る費用が多くかかる。
六 苗木の植付けは村方のためには有がたいことであるが、なかなか厳しく言われ、農業の時節には迷惑なことである。
七 検見(けみ)穂の残し方は田ごとに三尺巾[約一m]を一文字にしているが、検見がすみ刈取るのは二度手間となり、麦蒔きもできず、また、鳥なども集まり迷惑をしており以前の定めにしてほしい。
九 葺師の運上は少しではあるが難渋している。
一〇 土佐綿種、黄花種を下されたが、土地に合わないので種蒔をするのをやめてほしい。
一一 これまでねずみ喰いなどで減石になった蔵米の払い下げを受けていなかった村も、御蔵払を一俵安の値段で払い下げを受けたが、去年の秋より他村なみの値段で、他村の蔵米を願うように言われたが、大円寺村・青野村・大野村・広岡新田・両伝寺村・福岡新田の六か村は迷惑しているから、これまでの値段にしてほしい。
一二 村役人の岩村出張が多くなり、宿泊費などの出費がかさむ。また、農業の世話ができず困窮し退役願いを出さなければならないようになる。それに、役儀を大儀な心持ちで勤めるのは、村方のためによくないことである。
一三 村々に御救い小屋を建て難渋者を救済してきたが、乞食にいたるまで御救い小屋をあてにし、村の入用が多くなり迷惑なことである。
一五 天保元年(一八三〇)に庄屋廻村を仰せ付けられ、御趣意はもっともなことであるが、雑費が多くかかり、それに村役人の案内などで迷惑をしているから廃止してほしい。
二〇 天保五年(一八三四)江戸屋敷が類焼し、五月に無尽が発起したが、二十七会講と二重になり、新会の掛継ぎができないから断りたい。小方の積金も仰せつかったが迷惑であるのでやめてほしい。
二一 拝借米金の返納を仰せられたが、天領・旗本領・他の大名領においては御救米なみに拝借米が下げ渡されている。去申年[天保七年一八三六]に、取帳を提出する様に言われたが、これまでは、たとえ御督替えになっても、取帳を提出したことはなく、これは下々(しもじも)までお疑いの結果である。それに田植中に無差別で厳しい沙汰によって岩村に詰めているのは、難渋なことであり一統は安堵したいから、先代様のようにしてほしい[文頭の漢数字は願書のか条を示す]。
なお、八は上郷の新道のこと、一四は仲間の雇入れや給金の増金について要望である(岩村町史)。
願書に対する郡方役所の回答はⅣ-79表にまとめたが、この回答につき、「天保七申年凶作日記」は、
「酉十一月廿一日 御免定ニ右弐拾七箇条御聞届け下し置かされ候 是ニよって丹羽瀬様新法を御定め成られ候得共皆々古格ニ引替りゆるみ豊に御裁配……」と、旧習に復したことが書かれており、このことは、一か月ごとの人別改め、願書、注進状などの文面の善悪(よしあし)をとやかく言われること、些細(ささい)なことまで報告する義務、各村の庄屋が他村を廻り村政や農事についての情報交換など、新法として清左衛門によって施行されたことが廃されたことである。
Ⅳ-79 21か条の願書の回答
しかし、二十七会講は継続され、江戸屋敷類焼による無尽は積金の方法を緩和し、一定期間を休会とするが廃止とはならず、検見穂の残し方も寛延三年(一七五〇)、寛政四年(一七九二)の「触」の通りであり、「御年貢一分通ハ御引き下され候」と、大凶作後にかかわらず年貢の割引率としては、決して率の高いものとは言えない。通常の嘆願と違い一揆後の回答ではあるが、この様に地方(じかた)支配の根幹にかかわることは譲歩していない。新法は前述の通り村役人の負担になることが多く、願書の中でも負担となる役目を廃止することを要望している。それに、村役人の主導で一般農民を組織することなく決行されたことを考えると、この騒動は各村の上層階級や在地の岩村松平家の家臣団と清左衛門、それに新法に対する一揆とも言える。新法の解消と清左衛門の処分により一揆は成功したわけであるが、農民の負担が著しく軽減されたわけではない。
一方、岩村松平家は騒動を収拾するため、清左衛門を罷免し、その政策を破棄することにより農民を懐柔し、領主を中心とした体制を維持した。このことは、経済再建を目指し改革を断行している状況の中で凶作と一揆という不測の事態とは言え、中心となる清左衛門を退任させたことは、家臣団が一致し改革に取り組んだとは考えにくい。清左衛門の処分を要求し奔走した中堅層と重役の間には、考え方の違いが見られ、この様な家中の状態や農民に対処する支配者側の態度を見ると、天保の岩村騒動は、統率力の欠如と経済再建のできない基盤の弱さを映しだす鏡となったといえよう。