宝暦一一年(一七六一)一月、岩村領飯沼村庄屋弥兵衛は、家を嗣がせようと尾張領千旦林村市郎右衛門の次男要助を悴養子に迎え、要助の入籍を飯沼村禅林寺[曹洞宗]でなく、岩村浄光寺[真宗・東本願寺派]とした。禅林寺住職悦翁は、弥兵衛家は先祖代々禅林寺の檀徒であるから、当然、禅林寺の宗門に入り宗旨を替えるべきであると主張し、藤四郎を中心とした村役人と相談の上、翌々日の二月三日、藤四郎宅へ村民を集め意見を聞くと、公事(訴訟)は、「和尚様 次第」の意見にまとまるが、藤四郎は訴訟に持ちこむことを提案し村民も藤四郎の意見に従った。
弥兵衛が悦翁の申し入れに従わなかったのは、寛保二年(一七四二)から、弥兵衛の家では女性は浄光寺の檀那であり、おそらく市郎右衛門家も尾張領中津川宿村西生寺[東本願寺派]の檀徒であったと考えられ、同行(どうぎょう)衆として宗旨を替えるのを嫌ったためであろう。
弥兵衛家の様に宗門が二か寺にわたることは異例ではなく、「中巻別編(五)宗門改め」に所収された「享保二年 岩村領飯沼村宗旨御改帳」では、弥兵衛組下の次兵衛一家が次兵衛と悴の権助・喜之助が浄光寺、妻と娘いぬは禅林寺の壇那となっており、この様な例は多い。
二月四日、悦翁と藤四郎らは千旦林に出かけ、翌日には弥兵衛方へ行き説得するが不調に終っている。七日夜になると宗久寺[恵那市東野]・長国寺[恵那市大井]・萬嶽寺[市内阿木]の住職が寄り相談し、翌八日に弥兵衛方へ出向いている。千旦林村へ出かけたのは、おそらく要助の生家へ行き宗旨を替えるよう説得したとも考えられ、この様に悦翁らが宗旨替えに固執するのは、女性だけが浄光寺の檀那であることと、庄屋の家柄であることが理由と思われる。
二月一〇日、朝六つ半[午前七時]悦翁は書置を残して禅林寺を退院[住職を辞める]した。飯沼村役人の注進により代官は弥兵衛を呼び詮議の上、一四日より弥兵衛を戸締めの処分とした。一八日に岩村会所へ呼び出された弥兵衛は、戸締めの処分は取消しとなるが、庄屋役を取り上げられ養子要助は千旦林へ帰された。二月二九日、父義助と共に召換された弥兵衛は、禅林寺住職悦翁の帰住を厳命され、弥兵衛の庄屋解任後の庄屋[三月二日就任]となる藤四郎と相談し、隣寺五か寺に悦翁の帰任を依頼した。宝林寺[瑞浪市宮前町]の住職は本山へ退院届の差し止めをし、三月一二日、悦翁帰住職願いに宗久寺住職と藤四郎の弟浅五郎が本寺である播摩国妙仙寺へ出かけ帰住免許状を受けている。四月一四日藤四郎は三河国知多郡に寄留していた悦翁を迎えに行き、四月二五日悦翁は禅林寺に帰任した。