浄光寺の提訴

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悦翁が帰任後、両者は示談し内済[表向きにしないで内々に済ますこと]することにしたが、これで一件が解決したわけではなかった。六月七日弥兵衛の口書を三文字なおしたり、九日には岩村町役人の立会にて弥兵衛が浄光寺へ出した証文を調べたりしている。二三日より内済の相談を始め、二九日から証文の下書きを書き七月六日養子要助が生家へ帰り内済が成立した。八月三日、代官はこれまでの経過を書き出すよう命じ、七日には弥兵衛が会所において一日中詮議を受け口書を取られている。
 このことは、示談内済とは言え、弥兵衛・浄光寺側の完全な敗訴であり、藤四郎日記は九月一〇日の記事の中で、
「皆々様御出成られ申候 浄光寺乱心の躰にて まず弥兵衛岩村より帰る」
 と、浄光寺住職の憤慨ぶりを書いている。
 この内済のとき、五か寺の提出した証文に関して、不満を持った浄光寺住職らは、七月一九日に訴訟の願書を岩村の役所に提出したが、この願書は一一月に浄光寺父子に返され、願書が受理されなかった浄光寺父子は、この問題を相談するため京都六条の本願寺へ出かけている。
 この行動につき岩村役所は、宝暦一二年(一七六二)五月、弥兵衛らに対して、浄光寺が幕府寺社奉行へ提訴することを危惧し、弥兵衛や村方の難儀になると証文の改竄(かいざん)を命じ、弥兵衛は証文を破り捨てたり文言を変えたりしている。