曹洞宗五か寺の提訴

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飯沼村禅林寺・阿木村萬嶽寺・東野村宗久寺・岩村清楽寺・寺河戸村寳林寺の領内曹洞宗五か寺は、宝暦一二年(一七六二)六月、寺社奉行鳥居伊賀守(忠孝)へ願書を提出した。岩村藩の裁定は禅宗側に有利ではあったが、浄光寺の提訴の気配を感じての措置なのか、宗派上層部の指示なのか詳しいことは不明ではあり、また、浄光寺側の提訴の事実はなかったと思われる。
 この五か寺の願書は寺社奉行所から、岩村領主邸に戻され内済の裁定があるとされていた。このため、庄屋藤四郎は弥兵衛を連行し、この年の九月二八日と翌宝暦一三年(一七六三)一月九日の二度にわたり江戸へ出府している。両度の出府は、松平家臣の指示により領主邸屋敷内に寄宿し寺社奉行所からの知らせを待つわけだが、弥兵衛は禁足を命じられている。九月の出府は一二月一〇日までの長期間に及ぶが、これは、鳥居伊賀守の老中就任のため沙汰やみとなっていたからである。一月の江戸への出府は二月中に内済の措置が行われることを考慮しての出発であった。江戸に滞在中は、禅林寺願書の答書や内済に必要な証文をととのえなければならなかった。
 内済後の六月二三日に浄光寺より
「此度 飯沼村弥兵衛一件ニ付き 御奉行様方御判持参仕候間 今廿六日禅林寺を以て相渡し申候間 九ツ時に御揃い成られべく候」
 との廻文が参り、藤四郎は五か寺と弥兵衛、それに五人組に通知した。この判物は五か寺が提出した願書に寺社奉行四名が署名し印判を捺したもので、浄光寺に渡されていたものを両者が立会い裏書きをすることであり、五か寺と飯沼村役人と五人組、浄光寺住職、住職の弟ら、それに弥兵衛が立会い判物を改めるが、訂正など墨付きのか所が五七か所もあった。七月に入り、藤四郎と弥兵衛、五人組から勘助ら三人、それに五か寺の住職と関の香積寺が出府し、七月二一日に土井大炊頭(利重)に、五か寺と弥兵衛の内済についての返答書を提出した。
 七月一八日に江戸に到着した藤四郎らは五か寺と弥兵衛の内済についての返答書を提出した。
 七月一八日に到着した藤四郎らと五か寺の住職は一一月一八日に江戸を発つまで、五か寺は馬喰町一丁目の松坂屋吉右衛門方、藤四郎らは同町二丁目の幸年屋次郎兵衛方に逗留した。
 八月二日「同二日 罷出得ば 御奉行衆中残こらず御出 御吟味仰せ付けられ候」と、月番の奉行土井大炊頭と三人の奉行も出席して取調べが始められた。寺社奉行が取調べなどで関係者を呼び出す場合は次記のような差紙[呼出し状]により、取調べなどの内容は必ず岩村松平家に報告されている。
 二日以後、三回にわたり取調べが行われるが、いずれも、土井大炊頭の私邸で行われ、八月一五日には土井大炊頭の家臣向山源太夫が取調べ、弥兵衛の妻が浄光寺の壇那になった寛保二年(一七四二)の宗門帳の提出を命じたのは、やはり、家臣の石黒志津厂(ママ)である。これは、寺社奉行が譜代大名の中から選ばれたため、旗本がなった町奉行と違い、与力、同心などの役人の配下を持たなかったからである。一一月一一日、評定所において飯沼村弥兵衛一件の裁許が下るが、願書、答書などと共に詳細は一切分かっていない。この訴訟にかかった費用をいずれが支払うについて、岩村松平家の代官は「…‥其方共の了簡次第ニ仕るべく……」と、当事者が相談するように言っている。一二月二三日には寺河戸村庄屋丹右衛門が、寳林寺が訴訟のために出費した分を支払うよう催促に来ている。
 飯沼村

        元庄屋
         弥兵衛

        五人組
         伝右衛門

         勘助

        与七代
         兵右衛門

        組頭 友八代
          伊八

        庄屋
         藤四郎

右明暁七時評定所江可罷出者也

十一月十日