苦境の弥兵衛

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一一月二九日に帰村した庄屋藤四郎は、代官の意向をうかがい、公事入用金の処理方法は分からないが、村方と弥兵衛より口書を取り、一二月の初めに一応の処理を終ったが、一二月二三日に寺河戸村庄屋丹右衛門は寳林寺住職の訴訟にかかった経費の支払いを飯沼村に求め、「年が明けてから岩村の役所へ届け出る。」と、言い残し翌二四日早朝に帰村している。このように、寺河戸村庄屋が飯沼村に訴訟経費の全額負担を求めることは、五か寺の考えとも受けとれ、一二月二八日、藤四郎は代官吉田紋治郎に、寺河戸村庄屋が交渉に来た経過を報告しているが、その中に、
「最初 禅林寺和尚退院致され候節ハ 弥兵衛は申すに及ばず村方私共まで甚(はなはだ)難儀ニ存じ 和尚帰住これ有る様 なられ下されべく旨 五か寺様方御頼申候」
 と、悦翁の帰任を五か寺に依頼したから、そのときの費用は、
「御苦労掛け候こと故(ゆえ) 入用金は残らず此方より差出し 事(こと)相済み申候」
 と、弥兵衛が金二六両三分余を支払ったことを書き、また、
「最初御頼み申候とは別段之義に存じ候得ば 此入用飯沼より出(い)で候すじ合いにこれ無く存じ候」
 と、支払いを断っている。おそらく、飯沼村の村役人と弥兵衛は、各寺院の所在する村が訴訟の費用を分担するものと考えていたに違いない。それは、いったん治まった問題を、再度、提訴したのは五か寺であるとの考えからである。諸費用の負担は、藤四郎をはじめ村役人や弥兵衛の予期せぬことであった。
 村役人が連印し、代官吉田紋次郎に提出した文書では、訴訟費用を飯沼村が全額負担することの不当性を訴えていたが、この報告の後に書かれた「御百姓中入用之義ニ付 口上覚」では「江戸へ御出成られ入用金は禅林寺より御出し成られべく筋に候處、御出家の義 貯えもこれ無き事」
「禅林寺入用の義は旦家より差出す筋ニ有べく候」
 と、書きながら、弥兵衛がこの一件を起したのだから、費用を弥兵衛が負担することとしている。これは、事件を起こした者が入用金を出すことに村法はなっており、
「村法を破り候ては これ以後 村方のため宜(よろ)しからぬ様に存候」
 と、訴訟費の支払いを強く迫り、また、旦那方への掛り金[寺の諸入用金]は、弥兵衛より取りたてなければ、一切 ひきうけないと書いている。この口上覚は、禅林寺檀那の農民四一人が連判し、村役人に宛たものである。
 弥兵衛も村役人宛に口上を書き提出するが、訴訟の費用を弥兵衛が全額負担しなければならない不条理を次のように言っている。
 ①宗旨出入については巳四月[宝暦一一年一七六一]までに悦翁の帰住で済んでおり、入用金も支払い済みである。
 ②浄光寺が上京したとき、公訴に及ぶとして 村方などに難儀があると、去る五月[宝暦一二年一七六二]内分[公表をはかばること]にて、私にさしさわりがあったが、代官の指示により證文を改変したり破棄し、五か寺が内分になるよう協力した。
 ③ 家族の内、女子は二〇年以来の浄光寺の檀那であり、女子の宗旨も改めず男子のみ宗旨を改めようと言うのはおかしい。
 ④ この一件は、今までこともなく済んできたことで公訴をすることはおかしい。それに私が提訴したことではない。
 ⑤ 相談の内、私の知らないことも多く、所々へ飛脚を出されたが、私には一切の知らせがなかった。
 ⑥ 禅林寺が去六月[宝暦一二年一七六二]より当三月までの江戸入用金は合計八五両余になるがその遣いみちの明細を明らかにする。
 この口上に対しての回答はなく、明けて明和元年(一七六四)の一月一二日、代官吉田紋次郎に提出した口上書では、弥兵衛が一件の発端人であり、旦那方は知らないことである。村法の通り事を起こした者が入用金を支払うことを、代官が仰せ付けてほしいと願っている。
 二月九日、代官吉田紋次郎は、これまでの公事の入用金をまとめておくこと それに村法の書付けを提出することを命じている。飯沼村の役人は翌一〇日に書類をつくるが、口上書にある村法が果して存在していたか疑問である。代官所への提出は一五日であった。
 二月二一日 臼井左右治は、村法の通り村方と五か寺の諸費用を弥兵衛から取りたてる裁定をした。この件を帰村して弥兵衛に伝えると、「なるほど 委細承知仕り候 まかり帰り一家共ども相談仕り 御挨拶申べく」と、この裁定にしたがった。Ⅳ-80表は弥兵衛の支払った金額と支払いの方法である。

Ⅳ-80 弥兵衛の支払った諸費用

 三月一九日、この日、藤四郎は代官所へ出かけ金五七両の上納金の内、金四五両を弥兵衛より受取り利息金三分と共に支払っているが、残金の一二両は二三日に支払われている。このことは「和尚拝借金上納仕候」と、書かれている様に、寺社奉行への提訴に要した費用を岩村松平家から借り、また、浄光寺の提訴の気配を感じ証文などを改竄(かいざん)を命じたことを考えると、弥兵衛の道理が通るはずもなく、また、裁定の場所に弥兵衛が出席することなく、その様な慣例があっても異様さが感じられる。
 八月二三日、悦翁は村方に隠居を申し出た。このことに付き飯沼村は対策を練り、引き止めの工作をするが、一二月九日、隠居した悦翁は尾張へと旅立ち一二日には後任住職の晋山式が行われた。足かけ四年にわたり紛糾したこの騒動も終止するが、諸費用の負担をめぐる口上書を見る限り、弥兵衛の敗訴とはなっていない。また、弥兵衛が諸費用を支払う裁定のもととなった村法をめぐり、一五年後の安永八年(一七七九)に浄光寺と藤四郎が対立している。長い時間をかけ争ったが後味の悪さを残し、両者共に得るものはなかったと思われる。この一件でだれが利益を得たか、利益を得たものが、この一件の発端人であったに違いない。