村の事件には 各村方で起きた様々な事件があるが、すべてを取り上げることもできないので、本文中の各個所に記載することにし、ここでは岩村領飯沼村の例を中心にみることにする。
飯沼村の新兵衛が親不孝であり、行末は勿論、これからの農作業にも差支えるから、村役人に伝えてほしいとの願いが、母親や親類の者から五人組へ申し込まれ、組より源右衛門ら四人が庄屋藤四郎に訴えたのは、天明三年(一七八三)七月一九日のことである。庄屋藤四郎らは直ちに弥惣治郎[弥兵衛の倅]、伝右衛門と新兵衛を庄屋宅に呼び出し、親不孝な事実を問い糾すと新兵衛は一言の釈明もできず「これからは孝養をつくす」との返事に、庄屋藤四郎は新兵衛を親類と組に預け、翌二〇日には、五人組、弥惣治郎 伝右衛門 阿木村藤助 東野村小源治[藤助・小源治は親戚]の立会のもとで「孝養をつくす」の請合証文を取っている。しかし、新兵衛は八月三日夜に家出をし、翌日組頭のもとに欠落届けが出され、五日には庄屋藤四郎方へ欠落届が提出されている。新兵衛の消息は以後わかっていない。
天明七年(一七八七)三月二五日に惣吉の義絶願いが庄屋藤四郎に提出された。庄屋藤四郎は母親を呼び義絶願書に印形を捺印させ、翌日岩村役所へ提出している。四月二日には惣吉を正式に義絶するため、久離(きゅうり)帳に記載し人別帳から外すため「久離願」を代官所に提出した。代官吉田紋次郎は、この件に付き尋問するが、久離願いは受理された。おそらく惣吉は家を出たあと行方不明になったか、無頼の徒となった為に、犯罪などを起し、かかわりのないところまで迷惑が及ぶのを恐れて、この様な処置をとったものと考えられる。
前述の新兵衛は孝養をつくすことを約すが、それが守れず欠落をしてしまい、欠落届が庄屋に提出されるが、この様な場合、五人組や親類縁者は捜査し、欠落した者を見つけ出す義務があった。また、期間が長くなると義絶の願いが出され、最終的には久離を切られるわけである。新兵衛は欠落の段階で、おそらく、宗門送状を持参することなく出奔したに違いなく、宗門送状がなければ他方(よそ)では無籍者として扱われるのである。次の例は実情は違うが宗門送状を持って欠落した例である。
明和四年(一七六七)一〇月一日、惣七の女房は賃取りのため名古屋に欠落していたが、この日のうちに連れもどされた。庄屋藤四郎は吟味を行い、翌日、岩村へ出かけ表沙汰にしないため代官に「内分の伺い」をたてると、「宗門の願いは聞き届け、女房を追払うように」と、指示を与えている。代官の指示を仰いで翌三日、惣七の女房は組の者に送られ再び名古屋へ向うが、惣七の女房の願書の案文は、一五日に代官所より送付されている。
高札場には、
「親子兄弟夫婦を始め諸親類に志たしく 下人等に至る迄是れをあわれむ遍(へ)し 主人有輩ハおのおの其奉公に精を出すべき事」
で始まる忠孝高札が掲げてあった様に、幕府は孝行を規範倫理としていたので、親不孝は親孝行と共に重大な関心事であった。庄屋を始めとする村役人は、行政の末端の機関であるから、親不孝な者を取調べ、孝行する様に指導することが義務であった。また、居住、職業まで規制されていたから、自由意志で村を離れることは容易でなく、無届けで村を離れることは処罰の対象となったのである、この様な事件の処理でも
「五人組〓村役人〓代官」
と、上部の機関へ直接に訴えることなく、いずれの場合も五人組や親類の者が連帯してその責任を負い、証文を書くことにより問題が処理されたのである。また、惣七の女房の様に宗門送状をもらい村を出て行く場合もあり、本音(ほんね)と建前(たてまえ)が混在し裁量の幅が大きい裁定が行われていた(飯沼・宮地家文書)。