張り紙

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天保七年(一八三六)四月二日、代官加藤勇治のもとへ、村役人の奥書をした義絶願が提出された。その願書には、飯沼村利三郎組下源蔵[一九歳]が、我ままで身持ちが悪く、親類である阿木村の小四郎や五人組の者が、意見をしても聞き入れないことと、それに三月二七日夜、飯沼村左兵衛の物置へ盗人が入り米二俵が盗まれ、左兵衛の組の者が捜すと源蔵の家へ行く道筋に米がこぼれており、そのことを源蔵に聞き糾(ただ)すと、何の返答もなくその日の朝、突然と姿を消してしまい二九日になっても帰宅していないことが、義絶の理由であると書かれている。この源蔵は、母親と二人暮しであった。源蔵のことが願書には、
 「拾ヶ年前より気分揃ひ申さず候故 何と承り候ても一向前後相分かり申さず」と、常態でないことが書かれているが、源蔵の家の何処かに盗まれた米があったとは書かれていない。天保一五年(弘化元)(一八四四)母親が死去。未進[年貢不納]があるとして、五人組が立合い持高三石七升余の田畑を処分したが、安政五年(一八五八)に源蔵は親子四人で飯沼村へ舞戻った。源蔵は、
 「向後改心仕り可候間 何卒(なにとぞ)村方ニ住居致させ呉候様申聞せ 段々相歎キ候ニ付」
と、村への復帰を嘆願した。これに対し村方は、当分の間は先祖の墓守りをし、改心したならば帰参願をと寛大な扱いをした。源蔵一家は村より小屋を掛けてもらい、手当米として米五斗を支給され居住することができたのだが、親類、五人組に対して源蔵は、母親の死後田畑はどう処分したかと説明を求め、田畑の処分に立合った弥左衛門、新兵衛、平助に「代金其方共取込み居り候間 右田畑買戻し呉候」と、難題を吹きかけ、後難を恐れた三人は田畑を買戻し源蔵に与えた。
 この田畑も借金や年貢不納の決済のため、処分をまかされた五人組の人たちにより売却され、借金の返済や年貢の納入にまわされたが、それでも不足金があった。源蔵はこの件につき、前の村役人や新しい村役人の取扱いが悪いからだと不平不満を言い、中老や先役の者までにも「命を掛けて この恨み三年の間に片付ける」とか「おりおり焼立てくれ候」と、脅迫の暴言を吐き、書状や張り紙、それに書置きを残して、四八歳になった源蔵は、文久二年(一八六二)二月八日に家族を連れ再び村を出て行った。
 源蔵の書いた張り紙は、郷倉の壁や高札にはられ、仮名文字ばかりで難解なものが多いが、仮名を漢字になおし、脱字を補足して二枚を紹介する。もともと張り紙や落し文は一揆のときの要求や村役人に対する不満などを記し、書き手が分からないようにするのが常識であった
 「良くは捨(ふ)ておけ 悪くば挨拶せよ 中柴の田に作りをしてみよ みな刈取って 捨(ふ)ててしまうぞ」
 「源蔵にまぎらわせて 他の者が悪さをしても 〓(ママ)とおらな まちがいなくせんぞよ 田を作ってみ命が終わるぞよ 三年がうちに死に絶えるぞよ 人の田を売ったにこりもせず 又 売りはてた」
源蔵のこの様な態度に、飯沼村では再々度の入村を拒み 次の様な規定を相談のうえ決定している。
 「万之一 立戻り申候て 見付け次第板木打ならし 一同罷(まかり)出差押へ申べく」
と、全村で対処することになり、代官所へは「奉願口上」を提出した。その文中には、
 「何様之義も仕出シべくも計り甚(はなはだ)以って心配仕り候間 此上は何とぞ御召取り 急度仰付けられ候様仕りたく恐れながら願い奉り候」
と、源蔵が入村してから対処するのでなく、源蔵を捕捉することを願い出たのである。
 飯沼村では願書の提出後、源蔵の所在を尋ねるが、行方は知れなかった。四月一八日夜、その源蔵は嘉兵衛と源左衛門方に立寄り、高札と郷倉に張り紙をしてどこかへ立ち去った。この件に付き飯沼村では、四月二〇日に村寄合いを行い「源蔵を見かけたら板木を打ちならす」の規定に違反した両名と嘉兵衛の父徳治から「誤(あやま)り一札」をとり、
 ① 村の入会山に土牢をつくり源蔵を捕えて入れる。
 ② 源蔵を見つけ次第に出合いを呼ぶ板木を打つ。
 ③ 源蔵を見つけ、見逃した者は源蔵と同罪と見なし土牢に入れる。
の三項目を決め「村中納得連判状」にまとめ村中の者が連署し判を押したのである。この源蔵に対する飯沼村の例のように、村にとって不都合なことが起きたときは、村全体の問題として取組むのが普通であった(太田町吉村家文書)。
 「欠落」→「義絶」→「久離」と、無断で村を離れた者は段階を追って処分されるが、理由はどうであれ、処分された者は無籍となり、「元居村」「無宿」と、名前の肩に身分を書かれ、近世の社会では一人前として扱ってもらえなかった。二〇数年ぶりに帰村し一人で村をかきまわした源蔵も、親孝行をする様に諭された新兵衛も、久離を切られた惣吉も、いずれも片親であり、この様な環境の者が生きて行くには難しい時代だったのだろうか。