尾張領茄子川村の安政二年(一八五五)一月七日の一年の申合せ事項の中に「野荒しは年中 盗人は有り次第入札ニ致すべく候」の一項があり、この盗人(ぬすっと)入札(いれふだ)に名前が書かれたときは、何人もどの様な理由があろうとも一言の言い訳もしてはならない、問答無用の厳しい申合せである。各村でもこの様な方法がとられることもあるが、よほどの確信した事実がなければ入札(いれふだ)で犯人を決めるわけにはいかず、飯沼村藤四郎日記にも盗難の事例は数多く記録されているが、入札は次の二例だけである。
明和八年(一七七一)二月六日、蔵米が一俵、盗み出され軒下に隠してあるのを、蔵番の新助が見出し庄屋に届けがある。この件について捜査をするが手がかりもつかめず、一か月後の三月六日に村中で盗人の札入れをしている。また、寛政七年(一七九五)一月一八日に起きた薪盗人の事件は、盗難届が出された翌一九日の夜、五人組単位で村中が連判状を提出している。この組支配の連判状は、村人がそれぞれの身の潔白を証明するものであり、庄屋藤四郎は以後この様な事がないよう厳しく申付けている。しかし納得しない被害者は被疑者を詰問し事実を突きとめようとするが「毛頭覚え御座なく」と、否認され、また、村役人でない者が取調べることは越権行為であると、被害者と五人組が叱られている。この場合は被疑者が否認し解決の糸口がないため、庄屋藤四郎は村中に入札を命じ解決をはかった。
一月二三日には、この件につき代官手代に報告をしている。二月三日、村役人全員で被疑者を取調べるが、日記には「間違いについて吟味」とあり、薪を間違えて持って行ったと解釈するのか、他人の物に手をかけることを間違いと書いたか分からないが、「朝まで御待ち下されべく候」と、被疑者が帰ったことを考えると、取調べと言うより入札をもとにして、その被疑を認めるように説得しているように思われる。
翌四日、宇平次 伊助の二人に伴われた被疑者は、庄屋藤四郎方へ来て、その被疑を「偽り申候」と、受け容れ内分に済ませるよう、宇平次、伊助両人の
「内分ニ而御済し成し下され候ハバ私共迄有難き仕合に存じ奉候」
との願いもあり、「證文」を取ることによってこの事件は解決している。
この二例でも分かる様に、長期にわたり事件の目星がつかないとき、それに、容疑者でありながら犯行を強く否認している場合に、入札の方法がとられたと思われる。強い調子で書かれた茄子川村の申合せは、犯罪防止の意味も含まれていたと考えられる。
実害のなかった蔵米盗難未遂事件や薪盗難の軽微な問題は、庄屋を始めとする村役人により村内で解決をしている。宇平治や伊助の二人に同席してもらい事件を解決したこの一件は、村役人である二人が事件を内密に済す役割を果している。実害の少ない村の事件には、二人の様な存在が必ずあった。
天明二年(一七八二)一〇月の茂助方米盗難事件では、村内各戸の世帯主が村内から他所へ行くことを禁じられ、その翌日の一一月三日、盗まれたとする米が出てくるが、
「夜に入り寄合仕り盗人吟味之処 和尚様御貰い成られ候ゆへ 吟味相止め申候」
と、和尚がこの事件を貰い下げ犯人探しを中止させている。しかし、戻った盗難米がすり変わっており、俵を郷倉の前に展示し皆に見せている(飯沼・宮地家文書)。
村の事件は、総てが分かり切ったところで起ることであり、強い態度を持って事件を扱うことによって、村内に摩擦が起ることを避ける和尚の様な存在も必要であった。