これまでは村人が関わって起きた事件の、解決される過程のあらましを書いてきた。村は問題解決に自浄力をもって当り、平穏を是としているが、その秩序も外部から破壊されることもあった。
天明八年(一七八八)九月一五日夜、飯沼村伝右衛門は白米約三斗を盗まれ百姓代に届け、村中の家探しをするが結局は何の手掛りもなかった。七日後の二二日の夕暮れどき、こんどは禅林寺に盗人が入り、夜着、綿入れ、衣(ころも)などを盗まれたが、盗人は客殿の軒先に衣三着のうち一着を落して行った。盗人に入られたことを知って、寺では早鐘を撞き、猟師は鉄砲を放ち、ある者は法螺貝(ほらがい)を吹き、村人を集めて村へ通じる道を封鎖した。この日は村への総ての入り口に張り番をするに止(とど)め、翌二三日は神明森より禅林寺へ通ずる道でもある宮ノ根を探したが、盗人も盗品も発見することができなかった(飯沼・宮地家文書)。
これは、盗人の村内捜査の一例であるが、この様な不測な事態が起きた場合は、どの村でも鳴り物などで連絡し、村全体で事に当ったと思われ、山を控えた村では山狩りをする必要があった。
天保一三年(一八四二)一二月三日の朝、岩村領阿木村広岡新田の栄助方の土蔵が破られた。土蔵の戸を焼き、錠口をこじ開けて土蔵の中に侵入している。広岡新田では山狩りのため人を集め、龍泉寺山を中心に犯人を探して歩いた。この龍泉寺山から川上川に向かって東斜面の大瀧沢の杣小屋に着いた組は、杣小屋の中に人の気配を感じ、声をかけると中にいた男が刀を振り回して飛び出したので、他の組の者が来るのを待ち男女五人を取り押えた。生国年令は次の通りである。
信州更科郡松代 無宿 貞助 年廿三才
当国郡上八幡 無宿女房 さだ
江戸本庄壱町目 無宿 吉蔵 年廿七才
当国郡上八幡 無宿女房 ふじ 年廿一才
甲州川口 無宿 友吉 年廿三才
どこでめぐり会い、どう結びついたかはわからないが、この五人の若い男女は、栄助方だけでなく広岡新田は勿論のこと他村でも盗みを働いていたが、盗品と所持品は端切れを始め数一〇点におよぶ。
逮捕された五人は、広岡新田の村役人に生国や名前、それに所持品の検査も受けた。村役人は取調べたことと、逮捕までの経過を注進状に書いて岩村の役所へ届け、引取りの役人を現地で待った。五人が潜んでいた大瀧ヶ沢の杣小屋は尾張領であるので、中津川分川上の庄屋半七の了解を得ている(阿木・広岡鷹見家文書)。
この一件を注進状で見る限り、その罪状を裁くことを除いて ①捜査すること ②逮捕すること ③取り調べることを村方で行っている。この三点はごく普通に行われていたことが他の例からも分かる。