松代無宿貞助と三人の罪の処断は、どうなったかは不明であるが、罪を犯した者が処断された場合は、廻状により領内[岩村領]に知らされた。享保二〇年(一七三五)閏三月一〇日に百姓清六が斬罪となるが、廻状は郡方役所より翌一一日に出され、阿木村へは閏三月一八日に着いている。この廻状の内容は、
① 判決
斬罪・清六 御領分拂・妻三拾七歳・娘四歳
② 犯罪と逮捕の経過
「嶋村左五兵衛先達而遣候荷物先月十五日盗取り 岩村仁蔵所江持参り 自分荷物之由申……小右衛門悴ノ八五郎見出し追懸け大勢ニ而とらへ注進せしめ候」
③ 取調べの様子
「有躰に申さず故 拷問せしめ候得バ盗取り候訳 のこらず白状致候」
④ 判決理由など
「手向い仕り 強勢(ごうせい)ヲ働き旁重科之者に付き斬罪仰付られ 妻子は御領分御払い 家財家屋欠所仰付けられ候」
と、廻状は清六の罪科を書いている。
寛政元年(一七八九)五月、岩村領東野村木ノ川[恵那市]にて捕えられた男子は、五月一一日に斬首される。罪状は岩村領飯羽間村小沢[岩村町]の忠左衛門方に放火したからである。
寛政九年(一七九七)一〇月四日、岩村領上村[上矢作町]と同領阿木村にまたがる岩村松平家が支配する山で、御用板を請負で出材していた義八は、その挽板を横流していたのが発覚し、郡奉行の取調べを受け自白の口書を取られ、百敲(たた)きのうえ三御領分追放となった。
清六の事件と後の二つの事件の判決を対比すると、嶋村左五兵衛の荷物は何であったか分からないが、罪の軽重はその品の値打ちによるとは言え、妻子が追放となり全く村からその存在を消してしまったことを考えると、時代の差はあろうが、ずい分と重い刑ではないだろうか。
「當村牢舎之儀ニ付 段々御苦労かけ候処 今日出牢御免 仰付けられ御知せのため申上候以上 八月廿七日」
この書状は阿木村庄屋から青野村組頭弥之右衛門宛に出されたものである。どこの誰が、なぜ牢に入れられたか、この書状だけでは分からないが、年貢の不納とか、とばくなど罪の比較的軽い罪のときにも、農民は入牢させられることがあり、この様な場合は他村の庄屋を立て早速の放免の御慈悲願いを行っている。