川並法度

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享保六年(一七二一)六月、尾張徳川家の山見廻りの奉行が廻村した。そのとき中津川村庄屋九郎兵衛、宿問屋長右衛門は連名で、中津川山、川上山の村民の共有、私有する丁間数を報告している。中津川宿村から眺望できる山とその尾根の伸びているところを中津川山と呼び、その境界は判然としないが、川上の集落から見られる山容を川上山と称していた。この山々は尾張徳川家が領有し、中津川宿村の知行主である山村甚兵衛は、中津川山や川上山から財政的な恩恵を受けていたという。
 御用木として伐り出された材木は、川上川から木曽川へと流され、官材として熱田白鳥湊まで運ばれた。したがって、川上川にも木曽川と同じ様に川並法度が適用された。この川並法度の中には
 大水の節 流出申候御用木は申に及ばず たとえ 枯木 枝付き申木ニ而も 橋木其外御用相立ち申べく木 切取申間舗候御事
 と、御用木の運材が行われる川では、流材を拾うことができなかった。
 嘉永三年(一八五〇)の秋、出水により川上川の仕出シ材が散乱した。尾張領駒場村の農民たちは、この時・木端(こっぱ)、切木(きれき)など拾い、桶、障子骨をつくっていたことが発覚した。農民たちは上地番所に召喚され、更に久々利役所で取調べを受け、未決のまま一一名の者が村預りの戸締めとなった。この者たちは裁許のとき追放になるだろうといわれていた。
 この一件に付き、中津川宿問屋長右衛門は、久々利表まで出向き、駒場村などこの地方を支配する北方役人に、製品としての切判のない木端などであるから処罰が軽くなるよう嘆願しており、この経過を嘆願書にまとめて、翌嘉永四年(一八五一)三月末、中津川代官小嶋与一右衛門にも提出している。この段階まで駒場村の一一名の戸締めは続き、この後の裁許を知る文書などは一切なく、どう処罰されたかは不明である。流木を拾い罪を問われたときは、追放の刑を受けるのが当然の量刑であると一般的に考えられ、そのために、長右衛門が嘆願書[乍恐御用達奉申上候御事]を書き、中津川代官小嶋与一右衛門に御慈悲を願ったのであろう。また、駒場村としても軽い刑ですむよう奔走したに違いない。農民たちも川並法度の存在や、法度を破ったときの処罰を知らないわけはなく、違法と知りつつ流木を拾ったと推察できる。流木を拾うことは、ある程度黙認されていたのではないだろうか。また、切判のない木端、木切れを拾ったとなっているが、この様な木で桶や障子の骨がつくれることができるか疑問である。
 享和元年(一八〇一)八月四日夜、東野村四郎兵衛ら二人が、飯沼村庄屋藤四郎方を訪れた。「東野村で博奕を打ち一一人の者が同心に引立てられて行ったが、同類の者が出ない様に」代官所へ阿木村庄屋平左衛門と行って、代官に取りなしてほしいとの依頼であった。この博奕の手入れは、幕府の博奕取締りの触を岩村松平家の郡方役所が、村方へ廻状として触出した七月二九日後に行ったものである。この取締りは幕府の触が出たからであり、取締る対象はどこの村でもよかったのである。このことは、駒場村の流木拾いと共通し、この様な問題は支配する側の匙加減により、取締りは重くも軽くもなったのである。