落合宿の金一四〇両盗難事件のように、宿場や街道、それに脇往還など人々が往来するところでは、村では見られない事件があった。その一つに病気で倒れたり死亡したりする旅人の取扱いにからむ問題である。
元禄元年(一六八八)一〇月、道中奉行は、旅人の病気、病死人の取扱いについて次のように触を出している。
① 病人は念を入れ薬などを用い、その者の生国、親類縁者をこまかく書付け、早々に宿継ぎによって道中奉行に注進し指示を受ける。もし、指示がないうちに病気が全快し独り旅ができるようになれば、心次第に何処へでも行かせよ。その者が出発するとき証文をとり親類縁者、生国を書付けさせ、宿継ぎにて道中奉行へ差出せ。
② 道中奉行の指示のないうちに病人が死亡した場合は、幕領ならば代官所の手代、私領においては、その所の役人を招き、宿問屋、宿年寄が立会い検死を受け、死骸を埋め所持品を記録し、幕領は代官、私領は領主から道中奉行へ注進せよ。
明和四年(一七六七)一二月には、病人の回復がおくれた時は、本人の親類を呼び寄せ、更に病人の望みによって村継ぎにより駕籠で送ることなど、こまかな規定をした触書が出された。
病人の介抱や移送は、この様な原則によってなされ、市史・中巻別編 宿・交通の中には、近江八幡の飛脚和助病死一件が所収されており、この規定通りに取扱われているが、そうでない場合もあった。
享保一三年(一七二八)八月、大坂定番として赴任する戸田大隈守の家臣関口定右衛門は百人同心として随行するが、父源助も大坂へ行くため御番衆とは別に中山道を旅していて、道中で持病が再発した。このため関口源助は諏訪宿の問屋に頼み、大坂へ送ってくれるようにとの、宿々への依頼書と送り状を書いてもらい道中持参した。
八月四日、関口源助は落合宿より駕籠に乗せられ中津川宿へ送られて来るが、ことのほか雨にぬれていた。中津川宿では大井宿へ送るのを止(や)め、新町に宿をとり、衣類を貸して火にあたらせ医者に見せ薬を与えると、夜中には元気を取りもどした。宿役人は、大井宿まで行きたいと言う関口源助の証文を取り、中津川宿で養生したことを書いた添状を持たせ八月五日に大井宿まで送った。
関口源助は大井宿役人に、今日は大井宿に泊り、明日大湫宿へ送ってくれる様に頼むが、大井宿役人は、その願いを断りその日のうちに、大湫宿へ送る。大湫宿に着いたのは夜も更けてからであった。
大湫宿では、関口源助の受入れを断る話を大井宿の人足にするが、大井宿の人足は帰ってしまい、関口源助は放置されたままで、病状が悪化し危篤な状態となったので大井宿へ釣返されてしまった。
大井宿は、今度は中津川宿へ関口源助を戻した。中津川宿では、帰ろうとする人足を呼び止めて、
「病気の養生もした。関口源助殿の願いも書付けにして取ってある。それに夜中に遠い道を大湫まで送るとは何事か。もはや脈もないではないか。大井宿へ関口源助殿を乗せて帰りなさい。」と申し付け、「死人では是非もない」。
と、関口源助は大井宿へ連れ返された。大井宿役人は検死を受けるため尾張の役所へ注進し、検死後、関口定右衛門に連絡すると、早速かけ付け取仕舞(とりじまい)をした。この一件に付き三宿は取調べられ、その結果、大井、大湫両宿は叱責され、さらに大湫宿は、先ず問屋一人、年寄二人が閉門となり、この閉門が解かれると別の問屋一人、年寄二人が閉門となっている。これは宿問屋の業務に支障がない様に取計ってのことである。重病の関口源助が駕籠に乗せられ、中津川から大井へ、大井から大湫へ、大湫から大井、中津川へと連れ返されたこの一件は、中津川宿役人が、定法通りの手続きをして次宿へ送ったにしても、何か割切れないものが残る事件であった。