遠山友政は慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の功によって、天正一一年(一五八三)離苗以来、一八年目にして苗木の本領を安堵され、恵那・加茂両郡内三五か村、一万五二一石五斗二升を領有した。
入封直後の友政にとっては、複雑な支配関係があったことがうかがわれる。その一つは関ヶ原役、その処理に際して卓越した才能を買われて家康に重用され、美濃国幕領を支配した美濃国奉行大久保長安とのかかわりである。長安の支配する国内の手代り・代官は十数名に及び、その中には旗本代官・大名の代官など多様な型の代官がいた。その一人に苗木領主遠山友政も含まれていたと考えられる。友政は旧領苗木以外に、裏木曽とよばれる恵那郡加子母村・付知・川上の三か村を預かっていた。従ってその期間は、裏木曽三か村が元和元年(一六一五)八月、尾張領になる間のことである。