裏木曽三か村を預った友政には、木曽代官となり木曽山と木曽・飛驒川の一貫支配にあたった山村道祐らと、木曽材の採運にかかわっていたことがわかる書状がある。これは大久保長安が木曽代官に宛てたもので、十数通にのぼる。その大部分は遠山氏・山村氏に宛てたものである。内容は慶長年間の駿府・江戸・名古屋の造営用材に関するもので、用材の樹種・材種(規格)数量から輸送上の指図・所要資材等のことを詳細に認(したた)めている。これにより当時の常例的な御用木の採運は木曽代官山村道祐を中心とする木曽衆と、苗木の遠山友政お手伝いによって処理されていることや、緊急を要する場合の出材、例えば、慶長一二年(一六〇七)の駿府用材にあたっては「今度は急ぎに候間 濃州一国之侍衆へわり付 手前切に御いたせ」、その輸送は「上々の土居木を(奈良井口にて)とらせて 木曽衆の御役にて甲州迄届(中略)美濃筋へ出候をば 遠山久兵衛殿御役にて 早々桑名へ届」けさせるような方法により、これを以ってしても及ばない場合は、角倉以下の商人に仕出材を買い取らせて急送させる等の処置を講じていた。(近世林業史の研究 所 三男著)このように友政は、大久保長安の手代りとして木曽材の採運と取締りのことにあたっていたことがわかる。
その他としては、江戸上野大光院・六郷の橋木の採運にもかかわっていたこともわかる。