木材の需要は従来から当然であったが、その必要性が急速に高まるのは近世に入ってから大規模な城郭・寺社等の建造をはじめ、住宅建築・土木事業用資材等の用材需要にあったことは当然のことである。また火災・地震等その他の災害による大きな消耗は、その需要度を一向に減退させなかったようである。
そのため、こうした用材の需要に対応するための良質・豊富な森林資源が求められ、木曽等の天然林が開発されるようになってくる。現在では、木といえば木曽、木曽といえば木と連想されるが、しかし、比較的需要の少なかったときは伐採・輸送等の採運条件のよいところからであったから、その重要な役割を果たしていたのが中津川や、裏木曽であった。
秀吉領時代までの木曽での主要な用材産地は、木曽の入口にあたる恵那山北麓の湯舟沢山と、木曽川西の裏木曽山(川上・付知(つけち)・加子母の三か村)であった。いずれも林相が優れていた上に、木曽川への搬出も便利な地点であったため、それより運材距離が長く、従って運賃のかさむ木曽の谷本筋(木曽川本流と王滝川沿いの森林地帯)の原生美林にまでは、ほとんど手がつかなかった。それが急激な木材需要に追われて、本谷筋の密林へと伐り進むようになるのは家康の時代になってからである(近世林業史の研究)。
このように木曽谷に先だって、湯舟沢山は木曽の主要な用材生産地で林業開発の早かったところである。