山村氏は知行所であった中津川に広大な控山を持っており、年々採出を免許される材木が九〇〇〇本内外あった。このことについて四代良豊が明暦三年(一六五七)一〇月、尾張領の年寄衆に宛てた訴状によると次のようである。
知行所中津川山は徳川家康より道祐が拝領し、用斉・七郎右衛門・私(良豊)の代迄、大小角・板子寸間・木数出来あいに出して来たが、錦織役所をも通さねばならないので証文をとっておきたいと思い、寛永一八年(一六四一)徳川義直公が江戸へ行かれたとき、使者をもって老中迄申し入れた。親の代には一か年どの位伐出したか、と尋ねられたので、錦織の役帳を使者が持参していたのをお目にかけ、用斉代に、多く出した年は一か年に九千本出したと申し上げた。前の通りでよいということで、一か年に本数九千本と決まった。又、寸間については何程之角(木)出していたかとお尋ねになったので、小角ばかりで六、七年も二間半の六寸角が大部分であったと使者が申し上げた。それで二間半の六寸角以下の物と決めて証文の交付を受けた。以上のように木数九千本・二間半の五、六寸角板子を今まで出して来た。しかし、このように決めた頃は山に木も多かったが、近年次第に山遠くなり、檜も少なくなって伐採事業が困難になって来た。と訴えている。