山林の管理・取り締まりについては、各領内でそれぞれ役職名等に多少の違いはあるが大体似通った組織であった。
岩村領では安政二年(一八五五)~慶応二年(一八六六)の家中役職をみると、二人の山水奉行が監督し、その下に手代二人と山廻り一〇人がいたことがわかる。しかし、山水奉行については正徳・享保の頃は山奉行と呼んでいた。
苗木領では郡奉行の下に同添役一名、山方二名、山廻り一名であった。
尾張領湯舟沢村での山の管理は前述したように、木曽谷は元和以前幕領で、山村氏が木曽代官として管理を行い、尾張領付属後も引き継いでその支配を行っていた。しかし、寛文四年(一六六四)六月、尾張領の木曽谷巡見が行われてから、このことに疑問をもった山村氏は山方支配を尾張徳川家へ返上した。尾張徳川家がこれを受理したため、寛文五年(一六六五)正月以降は、木曽では民政と林政が分離され、山林関係は一切尾張徳川家の直轄として行われた。役所も木曽上松に材木役所が設置され、材木奉行が山関係を支配するようになった。
従って、その木曽材木奉行所には奉行の下に吟味役・手代・同心・山手代(在地役人)等の諸役人がいた。