巡見使と規制

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いずれの領内においても、御山や御林の管理については、その保護のため万全を期したが、なかでも尾張領内での山の管理は特に厳しいものがあった。その管理・保護のため、山林の状況見分(視察)として時折、巡見使が派遣され調査を行った。
 第一回の巡見は寛文四年(一六六四)六月、目付役佐藤半太夫、勘定奉行天野四郎兵衛、材木奉行都築弥兵衛、金奉行下野孫作らが木曽の各村を巡見し、山林の状況を絵図にして復命している。
 前述したように、この事に疑問を持った山村氏は山方支配の辞退を尾張表へ申し出た。これが受理され湯舟沢村は、民政は福島の山村氏、林政は尾張領の直轄となり、従って、山関係は上松に設けられた材木役所の支配下に入っていった。また、寛文五年(一六六五)、湯舟沢山は留山となり一切の伐木を禁止されることになった。湯舟沢村にとっては、以前から立入禁止の巣山があり、新たに留山の制がしかれ、農民は山へ立ち入ることもできないようになってきた。
 貞享四年(一六八七)には、金奉行星野三四郎外三名が第二回巡見を行い、その結果、巣山・留山・留山保護の立場から、その周囲に三町乃至五町の広さを留山同様に立入禁止とした。ちょうど刀の鞘のように巣山・留山を包んだので別名鞘山といわれている。このように、保護の立場から、だんだん百姓を締め出していった。
 元禄一〇年(一六九七)、御金奉行鳥居八左衛門、外二名が第三回目の巡見を行った。その際には停止木が指定され山林伐採が徐々に困難となってきた。
 享保六年(一七二一)六月には、普請奉行大村源兵衛、勘定奉行加藤仁左衛門、水奉行市川甚左衛門らによる第四回目の巡見が行われた。その結果、山林の荒廃を見て留木(届出の上伐採許可)の制がしかれ、切畑は山林火災の原因として厳しい制限を受けるようになった。