木材の需要が高まると、前述したように、樹木や山林を保護するため、特定の樹木を指定し、或いは、特定の地域を指定して、その伐採を禁止した。前者を一般に留木・停止木(ちょうじぼく)、後者を留山とした。しかし、尾張領においては、停止木と留木とは区別されており、停止木とは伐採を厳禁された樹木である。
尾張領では、山林資源の保続のため、林政改革に着手するのが、寛文五年(一六六五)であった。その後、宝永・正徳・享保と相次いで、山林資源保護策がとられてくる。その一つに、有用樹保護策があった。まず、停止木の制がしかれたのは、宝永五年(一七〇八)であった。「一 木曽御山連々就盡申候向後明山内共に檜・椹・槙・明檜立木伐取候儀御停止被仰出 谷中右之通堅申付候…」とあるように、木曽では、御巣山・留山の立木は、一本たりとも、伐採することは禁ぜられ、今後明山でも、檜・椹・槙・明檜の四種が、御注文木即公用に供するもの以外は、伐採することを停止した。禁木制はやがて入会地の林野、百姓控林、後には、個人の屋敷木にまで、その範囲は拡大されていった。その後も保護策は強く推し進められ、橋梁用材の如き生木(無疵の木)を必要とするもの以外は、御注文木といえども右樹種の寝木(倒木)・古木(腐朽の部分のある木)・枯木・風損木・疵木・熊剝木等の元伐りをし、生木の元伐りを停止することにした。その後、享保一三年(一七二八)より、四木に𣜌子(ねずこ)の生木元伐りを停木することになり、これを加えて「五木(ごぼく)」となり、此の五木は、畑の畦や道端にあっても、元伐りを停止したものである。これを俗に木曽の五木といっている。
その後も、巡見による山林調査の結果は、その都度厳しくなった。さきに留木となっていた槻(けやき)まで、嘉永二年(一八四九)停止木に指定された。その取締上、現家屋作木中の槻の使用されているものを、各村に命じて調査提出させた。