湯舟沢村の諸手形控をみていると、前述した停止木の一種に「留木」がある。留木とは、公用(尾張徳川家用)に供する目的が優先する樹種でなく、民用ないし公用材の保続を図ることを主眼とするものであったから、民間の必要に応じて申請すれば伐採を許される保護樹であった。その建て前からすれば、停止木の「禁木」に対しては、「制限木」というべき制度である。最初に留木の指定をうけたのは、栗の木である。栗の木は、果実が副食や、救荒食ともなる上に、材は建築・土木資材として広く利用されたので、停止木より早い時期に、恐らくは寛文改革後まもない頃に「留木」になったものと思われる。享保五年(一七二〇)には、栗の伐採を禁じ、翌六年には、遠山彦左衛門自ら諸奉行を率いて、木曽山の状況を視察し、その年明山の鼠子を留木にした(近世林業史の研究)。
その後、元文三年(一七三八)桂(かつら)が指定され、山林の保護は益々厳しさを加えていった。