木曽山林の管理が、山村家より尾張徳川家の直轄に切替えられると、白木改番所を増設して抜荷の取締りを強化しようとして、木曽谷北部の平沢と南部の落合に設置された。
落合には、寛文九年(一六六九)落合滝場庚申堂に置かれた。その設置された経過については、寛文二年(一六六二)山村家では、木曽で打った木印のない荷は勿論、檜の皮も取抑えるよう、落合・中津川に命令すれば、盗み出しも減るとしている。その後、享保一二年(一七二七)四月番所は廃止された(塚田手鑑)。この間のいきさつについては、享保一二年(一七二七)木曽谷から出る檜物類改めのため、落合宿と平沢村に番所があったが、昼だけで夜の抜荷の取締りができないので、二か所とも廃止して、山村家から妻籠と贄川に番人を置くこととなった。しかし、山村家では落合番所は、位置上大変よい所なので、今まで通りこのまま存続させたらと、尾張徳川家に進言した。また木曽路は勿論、山口・馬籠・湯舟沢の三か村に抜荷裁許人を置くことを止め、落合宿問屋のうち一人を任用した方がよいと申し出ている。しかし享保一二年(一七二七)には、落合番所を廃止し、木曽からの荷は、妻籠の下り谷番所で改めるよう尾張領徳川家は指示した。これまで落合番所で改めていた内容の通りを下り谷で改めることになった。尾張領では、木曽から出る檜物類は下り谷番所の切手がなければ、人馬を使ってはならないと落合問屋へ命じた。切手には年月日・品目・数量を記入することにした。このようにして落合・平沢番所は廃止された(木曽山村家留帳)。なお落合番所は一畝二歩の屋敷地であった。