木曽の木製品は、当然ながら中津川へも入ってくるし、陸運であるので中津川を経由して、名古屋方面へも送られていった。木曽白木物が中津川に入るが全部売れるのではないから、一年間の売残りについては、調査した報告書を商人達が、尾張領内の各番所へ届出している。これによってみると、どんな木製品がうられていたかがわかる。中でも蘭村御免の檜笠については宝永年中頃(一七〇四~一七〇八)から中津川宿の十八屋杢右衛門が、蘭村より、一括仕入れて売捌いていたことが分かる。
「白木買払残注進状」により、どんな木製品であったかみると檜笠・ふるいかわ・がらく・榑木・屋根板・挽下駄・檜物道具・檜剝板・槻板子・小板等があげられる。こうした品々は、総てが木曽からの物とはいえず、落合、中津川から出た品物も含まれている。また、この「注進状」は、安永六年(一七七七)には、茄子川・大久手の役所宛になっているが、寛政五年(一七九三)、享和三年(一八〇三)のは、上地・茄子川・大久手の三か所となっており、この三か所には、それぞれ白木類改番所があったことがわかる。茄子川では「濃州徇行記」には〝町通りに白木改番所あり〟とある。こうした白木類を取扱う商人についても、誰とでもということではなく上金の役所から、白木類取扱者の名前と印鑑を記した覚書の提出を求めている。寛政五年(一七九三)の覚書をみると、中津川の町内、新町では、十八屋杢右衛門・塩屋新蔵・塩野与十・三河屋利兵衛・大坂屋弥吉・塩屋幸八・十八屋重蔵・阿木屋次郎吉、本町の坂本屋市郎右衛門・近江屋市兵衛・十八屋清兵衛、淀川町の付知屋嘉衛治らの一二名があがっている。