木曽谷の材木の搬出については、川の各所に川並番所が置かれ、木材の監視に当った。寛文三年(一六六三)八月、木曽川が出水し、落合のあたりを材木が多数流れた。このように、こうした流出が多いため享保八年(一七二三)落合に丈量小屋が設けられ出水に備えた。こうした川並番所が、当初は落合の馬場渡に置かれたらしいが、その後廃止になった。大井役所から二人奉行として勤めていたと伝えられる。川並奉行所は隣村山口村にもあって、木曽よりの出材について監視をしていた。そして、その勤めは、落合宿から出ていたが、元文五年(一七四〇)中山道が湯舟沢経由に付け替えとなるので、落合橋(刎(はね)橋)がなくなり、これからは、山口御役所御用のことは馬籠宿への振り替えを落合宿の問屋から郡奉行所へ申し出ている(木曽山村家留帳)。その後、延享年中(一七四四~一七四七)に下落合川原の久々利方源七の控畑に番所ができ、小栗治助がはじめて定番となった。しかし、その後ここも大水にて破損したので、しばらく上の段へ引上げ番所には落合から役人が出ていた。この川並役の手当は、夜番・昼番共に一人に付米一升ときめられていた。これは享保一七年(一七三二)中津川の役人が決めたということである。