背伐と刑罰

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前述してきたように、山林についての厳重な制約はあったが、それでも相当の違反事件がいくつか起っている。湯舟沢村においては惣山留山であったので、違反事故も多く、今記録に残るものを拾ってみることにする。
 当時違反にはどんなものがあったか、寛文五年(一六六五)三月、この頃起った背伐について報告の覚書があるのでこれによると、落合村のふすだの二郎右衛門と他二名が槇皮をはき背負いいるところを原(地名)で徳左衛門が見ていた。また落合村の上町、左助父子・九蔵が常生坊山にて明檜皮はぎをしているところを、藤九郎と二郎八の二人に見られた。さらには落合向町の忠右衛門が若木立山で、明檜皮むきをしているところを藤九郎・二郎八に見付けられた。二月八日には、先の落合のふすだの二郎右衛門が、槇の丸木三本を切り背負い帰るところを藤九郎他四人に見られている。こうした事実をあげ、証拠としてのなた(鉈)、よき(斧)をとりあげ吟味を申出ている(島田家文書)。
 これらによってもわかるが、相当数の背伐があることがわかる。また、延宝三年(一六七五)閏四月の末、湯舟沢山で槇皮がはがされた跡があったので、庄屋がこの事を報告をした。その結果、木の数にして一三三三本に及んだというから、相当数であったので、何処の誰の仕業か、改めて吉村安左衛門、松井善左衛門を派遣し、取調べた結果、湯舟沢村の徳左衛門であることが分かった。そこで徳左衛門を召捕えた。この件には徳左衛門の兄弟も関係している様であったが、それは詮議されずにすんだ。この事は尾張表に報告され、遂に梟首にされ、妻子は追放された(岐蘇古今沿革志)。